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上弦の月
今晩は上弦の月だそう。
二日ほど前に、人とキレイな月だと話している時
下方が丸くて、上方が欠けている
ちょっと弓なりの月を見て
無知な私は「上弦の月だ」と言った
話し相手が、調べてくれたようで
どうやら上弦の月は二日後みたい。
半月であるタイミングを上弦、もしくは下弦と呼ぶようだ。
新たな知識を得てうれしくなった私は
自分でもネット検索してみた。
そこに出てきたのは、秋の季語としての月の呼び名
色々あるが、私の目に留まったのは
片割月
昨年、病で夫が亡くなりひとりになった。
どこかの本で読んだ、「身体を半分もぎとられたような痛み」を体感した。
その作家の言葉にあったのが、かたわれという言葉。
『夫婦愛、相性の良し悪し、といったことは無関係である。
私たちは互いが互いの「かたわれ」だった。
時に強烈に憎しみ合いながらも許し合い、最後は、苔むした森の奥深く、ひっそりと生きる野生動物の番のように、互いがなくてはならないものになった。
「かたわれ」でなければ、そうはならなかった』
そういった言葉を救われるような思いで読み、共感しながらも、私は本当に夫にとってのかたわれであることが出来たのか、を反芻する。
夫の最期を過ごすパートナーは私で良かったのだろうか。
もう誰に聞くことも出来ない
考えても仕方のないようなことを考えてしまう
少しづつ時間が経って
自分ひとりの人生を前向きに進んでいこうと考えることも増えてきた。
そんな中で気づくこと。
夫がありのままの私を受け入れてくれていたことで
私自身が、私の存在価値を認めていた部分があったんだな。
結婚するとき、自分の中で
相手に依存するのではなく、互いに自立した関係を築きたい
そう思っていたし、そうあれるよう心掛けてきたつもりだった。
私にとって夫は一番身近な他人で、
放っておくと自堕落で何もしない私が
他人がそばにいることで
良い意味で自分を律するような生活を
自然とすることが出来ていたように思う。
今、ひとりの生活に慣れてきて痛いほど感じる。
ひとりでは何もできない自分を顧み
様々なコミュニティに参加し
人と接することのありがたさを実感する日々。