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川に飛び込もうとした日


川に飛び込もうとした日があった。
仕事でお客さんに心無いことを言われ、その言葉に上手い言葉を返せず、そのお客さんに腹を立てたというよりかは自分の不甲斐なさ、スキルの無さを悔やんだ。その日はたまたま徒歩で帰宅していて、(普段は自転車)近所には土手があった。早くいなくなりたい、楽になりたいと思ってふと、「川に入ったらどうなるだろう」と考えた。土手の川沿いに到達した時点で、「もういいかな」と思った。気づけば川のきらきらと輝く水面に吸い込まれるように近づいていこうとしていた自分がいた。気づけば二十分くらいその場所でぼーっと皮を見ていた気がする。あの川の、奥深い底の、もっと底の深淵を見てみたくなった。
その時ふと我に返り、咄嗟に友人に電話をかけた。その日、川に入ることは無かった。仕事もお金も家族も友人も、全てのことを考えない場所に行きたかった。自分を縛るものがない場所に行って、『楽になりたかった』。



例えば、とても重大な病気にかかり「あなたは残り僅か、数ヶ月の生命です。」と言われたとする。
自分の人生の先に、明確に可視化された"死"があったとするならば、今の私の精神状態であればその"死"は割とすんなりと受け入れられると思う。寧ろ、可視化されていない漠然とした、輪郭がなく靄がかかったような不明瞭な"死"を想っている方がよっぽどつらい。死にたいけれど死ねない、死にきれない。自分のすぐ目の前に迫っているのに、掴もうと手を伸ばしても掴めない。生き地獄。
実際、きっと死ぬ直前になったら『怖い』という感情は湧いて出てくるものだと思う。無理やり意識が遮断され、身体の停止を感じる瞬間の『恐怖』は計り知れないだろう。それでも今の私にはそれが正しくて、そうなりたいと思ってしまう自分がいる。外的要因で命を断つことが出来れば良いよね、と電話中に友人と話していた。
全てから物理的に距離を置きたい。家族も友人も、仕事も、お金も、いつもぐるぐると頭の中を渦巻いて蠢いているもの達を殺したかった。そうするには、その時の私には死ぬしかないと思ったのだ。本当に。
人間、おかしくなった時に限って『自分は実は正常なのではないか』と考えることが多いのではないだろうか。少なくとも私はそうで、川に吸い込まれそうになっていた瞬間を思い返すと、あの時はそれが一番正しい選択だと思っていたような気がした。
帰宅して、友人に勧められるがままに急いで通っている病院に予約をして、翌日病院に向かった。
病院の診察室は、小さい白い箱のようなところ。担当医の方と、その助手のような方ひとり。その正面に腰を下ろした。
あらかじめネットで『受診理由』を記入していたため、担当医の先生に「何かありましたか?」と問われた。川に飛び込もうとしてしまいました、と言った。予想以上に自分の声は弱く、細かった。ひとまずは薬を増やしてもらい、様子を見ることになったが「死にたくなった時には、必ず、病院に来てください。」と担当医の方がいった。そんな些細な言葉で私はなんだか泣きそうになって、わかりましたと言う声が震えたような気がした。たった数分の出来事だったのに、担当医師に言われた言葉が心の中をずっと反響していた。顔と名前しか分からないその人の言葉に救われたような気がしたのだ。

お会計を待っている間、段々溢れてこぼれてしまった自分の涙を拭うのに必死だった。


あしたも生き延びるぞー。

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