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延命措置についてはじめて考えた日

母がうつになり、父の介護ができなくなったため、「レスパイト入院」を利用させてもらうことになった。

わたしと妹と父だけで向かう病院。
たぶん3人とも、それぞれに心細かった。
でもそのおかげで、父の気持ちを聞くことができたんだと思う。

入院の手続きを終えると、事務員さんに連れてられて包括ケア病棟まで移動した。
そのとき案内してくれた女性が、一緒に歩きながらわたしと妹のことを褒めてくれた。

「くろぺんさん、とてもお綺麗な娘さんがいらっしゃるんですね〜。
お2人もこうして付き添ってくれるなんて、本当にあったかいご家族ですね。いいなぁ〜。」と、ニコニコしながら話しかけてくれた。

困った顔して照れくさそうに笑う父…。
あれはうれしいときの顔だ!

その声かけがお世辞とか社交辞令であっても、あの瞬間の父の気持ちをちょっとでも温めてくれたことがうれしかった。
だってわたしたち、いろんな意味でピンチだったから。
それはもう、泣きたいくらいに。

こんなふうに関わってくれる人とのなんてことないやりとりが、追い込まれた私たちにとっては救いになることが何度かあった。
その記憶はしっかり残っていて、今思い出しても本当にありがたくて。

優しくしてくれた人たちに恩返しすることはできないけど、その代わりに自分も他人にあったかく接したいと思っている。

病棟に着くと、父はそのまま看護師さんに連れられて病室へ行ってしまった。
「お父さん、じゃぁ、またね。」と言ってバイバイした。
コロナ禍だったので、退院するまで会うことはできない。
かわいそうと申し訳ないが半々で、気持ちはしゅんとなる。
でも、病院でみてもらえるという安心感も大きかった。

父を見送ったあと、包括ケア病棟の担当医から説明を受けることになっていた。

わたしと妹だけで、先生のむずかしい話を聞く。
親のことでこういう場面はいつか来るとは知っていたけど、もっとずっと先の話だと思っていたわ。

父の今の状態がわかるカルテはすでに先生の手元にあった。
がんと脳出血でお世話になった病院からの情報だ。

当時わたしが理解していたことは、

・がんの転移が肺にあり。
 担当医に余命を聞いたら「わからないが、1年くらいかもしれない」と言われていた。

・認知機能の低下があり。
 認知症?それともがんが脳に転移した?と謎だった。
 MRIは動いてしまい撮れず。担当医からはブレたCT画像を見せられながら説明を受けた(認知症ではないとのことだった)

なんだか、こうして思い返してみると、治療せずゆっくりと人生を終えていくゾーンに入っていたんだな、とあらためて感じる。

わたしたちが理解している父の状態を先生に伝えると、想像していなかったことを言われた。

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