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二人の天才、加藤和彦と大瀧詠一レポート (訂正版:'18/3/28)(文:こたにな々)
『徹底比較二人の天才、加藤和彦と大瀧詠一』
【ナビゲーター】牧村憲一(音楽プロデューサー)
-----------------------2018.03.21 新宿 ROCK CAFE LOFT
新宿歌舞伎町に新しくできたロフト系列の『ROCK CAFE LOFT』、オープン2日目のイベントでした。とにかく良いスピーカーが出す良い音で飲食が楽しめる。2階は ”ロック道場” と名付けられ爆音でより楽しめる。この日も老若男女のお客さんで満員御礼でした。
http://www.loft-prj.co.jp/rockcafe/
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- 二人の天才、加藤和彦と大瀧詠一
加藤和彦:
1967年『ザ・フォーク・クルセダーズ』でデビュー。1971年『サディスティック・ミカ・バンド』を結成。自身のソロ活動に加え楽曲提供や映画・舞台音楽を手がけるなど、音楽プロデューサーとしても活躍。2009年62歳で逝去。
大瀧詠一:
1970年『はっぴぃえんど』でデビュー。並行して71年よりソロ活動開始。CMソングや若手プロデュースに加え、1974年自身の音楽レーベルを設立。80年代以降は松田聖子をはじめアイドルや演歌への楽曲提供など幅広く活動。アレンジャーやエンジニアとしての顔も持つ。2013年65歳で逝去。
3月21日は加藤和彦の誕生日であり、大瀧詠一ファンには ”ナイアガラの日” として馴染み深い意味ある日である
そんな日に、加藤氏と親交があり大瀧氏やその周辺と深い関わりを持つ、音楽プロデューサー牧村憲一氏が二人の天才を分析した不思議な夜だった。
参照画像:https://www.yuruyakana.jp/ より
【ナビゲーター】 牧村憲一:音楽プロデューサー
音楽事務所『ユイ音楽工房』で『かぐや姫』を担当した後、CM音楽業界へ移籍。大瀧詠一の三ツ矢サイダーCM曲決定のきっかけを作る。さらに移籍後『シュガーベイブ』『センチメンタル・シティ・ロマンス』のマネージメント兼プロモーションや山下達郎、大貫妙子、竹内まりやのソロデビューに関わるなど、ナイアガラ周辺と関係が深い。(1990年代にはポリスターに移籍し、『フリッパーズ・ギター』をプロデュースしている)/2018年より新たな都市型ポップスを発掘する『緩やかなレーベル』を立ち上げた。
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プロローグ・二人の天才
加藤和彦、大瀧詠一は同世代であり、各々バンドでデビューし、自分のソロ活動以外にも楽曲提供やプロデュース、アレンジ・エンジニアとして活動する才能を持っていた。二人の顔合わせ自体は無かったが、二人には細野晴臣や鈴木茂という共通の友人がいた。時代を並走した二人、そして90年代初めに誰よりも早くフリッパーズ・ギターを評価したのがこの二人だった—。
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比較① ウォール・オブ・サウンドへの早い取り組み
-エンジニアとしての気質を持つ二人-
※ウォール・オブ・サウンド:アメリカの音楽プロデューサー フィル・スペクターが1960年代から70年代にかけて行ったプロデュースの称名。複数のテイクを重ねていく作業を何度も繰り返して作られた重厚な音は ”ウォール・オブ・サウンド” と呼ばれ、音楽制作者やミュージシャンに大きな影響を与えた。また ”スペクター・サウンド” とも呼ばれる。
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●加藤和彦、彼はファッションやライフスタイルなどスノップな部分で注目される事が多かったが、早い時期からのビートルズ研究家の一面も持っており、エンジニア的な要素が垣間みれた。
※フィル・スペクターは後年の早い時期からビートルズと親交があり、後に『レット・イット・ビー』(1970年) のプロデュースをも手がけている※
『オーブル街』ザ・フォーク・クルセダーズ (1968年)
●ビートルズの『リボルバー』(1966年)に影響を受けて作られた曲で、その手法が少し入っている。『リボルバー』のアナログレコードを何枚も買って来ては、繰り返し繰り返しずっとかけっぱなしにして録音の秘密を研究していた。
加藤氏によるその発見と手法は ”テープをひっくり返して録音してまた元に戻す” というもので、例えばギターをジャーーンと弾くとンーージャと聴こえるようにテープを利用した録音であり、これはザ・フォーク・クルセダーズの代表曲である『帰って来たヨッパライ』(1967年)でも使われた手法である。
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-自ら大失敗しながら成功へ向かう二人
●1979年 加藤和彦の5枚目のソロ・アルバムである『パパ・ヘミングウェイ』では、小説家アーネスト・ヘミングウェイの生涯をテーマにしている為、作家ゆかりの地であるバハマとマイアミで録音されているが、現地で見聞きしたものを試す為、帰国してミックスをし直している。当時流行り出したダブサウンドである。
●現地で20cmくらい相当数のテープが積み上げられていたのを見て、すぐにレコーディング・エンジニア現地の人に「これは何だ?」と尋ねた加藤氏は「ビージーズが置いていった物だ」と聞くや否や「開けて聴いていい」と尋ね、レコーディングの秘密を掘り出してしまう。聴きながらそこにあった機材を好きにいじくりまわして機材を壊したという逸話もあり、好奇心と探究心をいつも持ち合わせていた。
※ビージーズ:イギリス人のギブ三兄弟を中心に構成された男性ボーカルグループ。1963年オーストラリアよりデビュー・1973年からは米国を中心に活動。/加藤氏のレコーディング時の現地の人によると「ビージーズは自分で歌う前にソウルフルな人に歌わせて、それをそっくりコピーする」手法を取っているとの事だった※
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●失敗といえば大瀧氏はどうしても ”ウォール・オブ・サウンド” が録りたくて、スペクターは「壁に音をぶつけて、それを録っているんじゃないか」と耳に挟めば、福生スタジオの壁の音吸収剤などを全て剥がしてむき出しにして、本当に音を壁にぶつけてみたりしていたそうだ。
それくらい当時は海外の情報が入ってこなかった。
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●大瀧詠一、”ウォール・オブ・サウンド” への最初の実験作
『12月の雨の日』はっぴいえんど(1971年シングルver)
●はっぴいえんど1stアルバム『はっぴいえんど』(1970年)に収録されたバージョンとは違っており、アルバムは4チャンネル録音であるのに対してシングルは8チャンネル録音と進化している。
●この楽曲ではピンポンというコピーの手法によって、
”空けていたチャンネルすべてに12弦ギターを山のように被せる” という、スペクターがジョージ・ハリスンの『ALL THINGS MUST PASS』(1970年) で行った手法を大瀧詠一は試している。”ウォール・オブ・サウンド” をイギリス的解釈をして作った。
※チャンネル:トラックは録音するメディアに割り当てられる領域で、
チャンネルはその入力数のことを指す。
(例) カセットテープの場合なら、A面のL/Rで2チャンネル・B面のL/Rで2チャンネルの ”2トラック4チャンネル” となる https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q124666042 (こちらの説明が分かりやすかったです)※
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●加藤和彦も、サディスティック・ミカ・バンド『黒船』(1974年) レコーディング時にビートルズの『WHITE ALBUM』(1968年) アシスタント・プロデューサーエンジニアであったクリス・トーマスからギターを被せる事を伝授され、空いたチャンネルに全てにやたらギターを入れるようになる。加藤氏は様々なギターを4台も5台も被せ、最後にエコーですっ飛ばすという手法を行った。
『ドゥー・ユー・リメンバー・ミー』岡崎友紀(1980年)作曲・プロデュース加藤和彦、作詞は元妻の安井かずみ。スペクターがプロデュースしヒットさせたロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』を意識して作曲した曲といわれている。
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『雨は手のひらにいっぱい』シュガー・ベイブ(1975年)大瀧詠一が山下達郎とやったスペクター・サウンド。
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●大瀧詠一は三ツ矢サイダーCMソング『Cider '73』の時には、”スペクター・サウンド” のやり方に気付いていた
空いたチャンネルにコーラス、サックス、パーカッションやギターを重ねエコーでとばしを被せて完成させる。モノラル的な発想と手法を用いた。
-『Cider '73』CM秘話
●牧村憲一氏が音楽事務所『ユイ音楽工房』時代に、CM音楽業界から誘いを受けて移った時、CMプロダクションに三ツ矢サイダーの話し人が来ており、牧村氏がちょうどいつも持ち合わせ歩いていたテープを渡した事で大瀧詠一の曲がCMに使われる事となった。
この時、牧村氏がテープを持っていなければ三ツ矢サイダーのCMは幻だったかもしれない。大瀧詠一のその類稀な才能でCM曲が来る事は遅かれ早かれあったかもしれないが ”サイダー” という媒体が大瀧氏には合っていたんじゃないかと、牧村氏は語った。
●この曲の演奏は大瀧氏は作編曲と歌を担当し、演奏はやっていない。演奏メンバーに細野晴臣や鈴木茂を入れる事も避けた。牧村氏の考えとして、一つは余計な事を二人へと背負わせない配慮だったのではないかという事。当時は商業主義のCM業界へ移るというのは裏切り者として扱われるような事だった。/そして二つ目は『はっぴぃえんど』を解散したのにまた一緒に仕事をしているというのが嫌だったんじゃないかという解釈だった。
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● ”ウォール・オブ・サウンド” の完成形
『君は天然色』大瀧詠一(1981年)
●言わずもがなの名曲であり、完成曲である。
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比較② 細野晴臣を巡る音楽の三角形
参照画像:http://hosonoharuomi.jp/ より
-加藤和彦と細野晴臣、大瀧詠一
●牧村氏が加藤和彦と一緒に最後に仕事をしたのが2000年のユネスコのイベント企画のテーマソングだった。加藤氏は市川猿之助のスーパー歌舞伎の舞台音楽を1年中やっているような頃だった。
加藤氏から牧村氏に「フォークルをもう一度やりたい。メンバーも決まっている」と協力の相談を持ちかけられた。その構想メンバーはボーカルが井上陽水・ベースが細野晴臣だった。結果は牧村氏が乗り気では無かった為、実現する事はなかった。
●加藤氏はミカバンドのサポートを細野氏にしてもらった際にも、ライヴ後に「一緒にバンドをしよう」と誘っていたが細野氏には「他にやる事があるから」とやんわりと断られていた。
そいういう風に何十年にも渡って、加藤氏は細野氏にラヴコールを送っていた
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●一方でそのずっと昔から細野晴臣と音楽をやって来た大瀧詠一という男がおり、二人の関係を語る上で細野晴臣という点を結ぶ三角形が存在した。
それは関係性だけを指すのではなく、日本の音楽を発展させ時代を並走した三人の三角形であり、その後、新しい三角形として細野氏がメンバーである『YMO』が出てくる。
牧村氏:そうやってらせん状にぐるぐる回って日本独自の音楽は作られている
新しい三角形がもう出て来なくてはいけないのに出て来ない。
新しく人が出て来る為には、今日のような店が本当に必要だと思う。
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-フリッパーズ・ギターへの評価
フリッパーズ・ギターのデビュー時のイニシャル数(最初の出荷枚数)は3000枚で、これは当時にすると最低限の数字で、大げさに言えば ”1枚も売れなくていい” と思われるくらいの数字だった。ライナーノーツを大貫妙子・田島貴男に書いてもらい、音楽番組『MTV』が助けてくれた事で数ヶ月で1数万枚を越すようになる。
●2枚目を出そうという時に、加藤和彦から牧村氏の元に「自分にプロデューサーをやらせてみないか」という連絡が来た。フリッパーズの持つブリティッシュの匂いに気付いて興味を持ったのではないかという事だった。それくらいいつも色々な所にアンテナを張っているような人だった。
加藤和彦もまた、大瀧詠一と共に早い段階でフリッパーズ・ギターを評価してくれていた音楽家だった。
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エピローグ・二人の天才
加藤和彦、大瀧詠一は同世代であり、各々バンドでデビューし、自分のソロ活動以外にも楽曲提供やプロデュース、アレンジ・エンジニアとして活動する才能を持っていた。二人の顔合わせ自体は無かったが、二人には細野晴臣や鈴木茂という共通の友人がいた。時代を並走した二人、そして90年代初めに誰よりも早くフリッパーズ・ギターを評価したのがこの二人だったのである。
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●あとがき●
お読み頂きありがとうございました。
大好きな大瀧さんの秘話と、私のバイブルである『渋谷音楽図鑑』著者の牧村さんのお話が聞けると、予備知識なく行って来ました。ナイアガラの日でしたが、別の所で濃いイベントが同時開催されているとの事で、恐いナイアガラーの方々が居なくて良かったです(笑)
というのは冗談で、良いスピーカーで聴くはっぴぃえんどやロンバケやフォークルは鳥肌が立つほどかっこ良くて、沢山の音が震えるように聴こえてきて、初めて出逢ったときのように私の心を揺さぶりました。(実は私はCDやテープ以外のアナログで初めて音源を聴きました)
思い出深い大切なお店となりそうです。
やはりこのオープン1ヶ月がお店の今後を決める勝負となるようで、素敵な場所が無くならないように、皆さんぜひ平日は音楽と食事を、週末は楽しいイベントに足をお運びください。私も友達に「良い店知ってるけど」と通な感じで誘い出そうと思います。 http://www.loft-prj.co.jp/rockcafe/
そして、終演後に牧村さんにあらためてご挨拶が出来て本当に嬉しかったです。いつも私の拙いレポートをお読みくださってありがとうございます。
【追記】牧村さんに直々に文章を添削して頂き、補足を頂戴致しましたので、さらにこの日の詳しいレポートになっているかと思います。
本当に本当に、感謝をここに!
あらためて皆様、お読みくださってありがとうございました!
文・写真:こたにな々(ライター) 兵庫県出身・東京都在住https://twitter.com/HiPlease7
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