美しいことは、苦しいこと。【山口小夜子 没後10年追悼上映会『映画 氷の花火』レポート】 (文:こたにな々)
山口小夜子没後10年追悼上映会「宵待月に逢いましょう」
--------------------2017.12.3 青山スパイラルホール・午後の部
ドキュメンタリー映画 『氷の花火 山口小夜子』(2015)
http://yamaguchisayoko.com/ 監督:松本貴子
山口小夜子と当時一緒に仕事をしていた人達による彼女のエピソードや、遺品の発掘、過去の写真やショーの出演映像/後半には ”小夜子プロジェクト” として、モデル:松島花・衣装:丸山敬太・ヘアメイク:富川栄・撮影:下村一喜による山口小夜子を再現する企画も。
没後8年に発表された、私達の中にあった彼女や彼女自身を探す作品でした。
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- 小夜子と親交のあった著名な方々の劇中インタビューより
髙田賢三(ファッションデザイナー)
1973年オイルショック後CMは明るく作れと言われていた。そこに小夜子がやって来た。「私は演技は出来ません」と言って。
資生堂での初めてのポスター『おはようの肌』ではCMと同じように顔は見えない、シルエットで語る。
『おはようの肌』1972年 資生堂クインテス
KENZOのショーでは身長170cmとあまり大きくない小夜子は服が大きくなるが、それが逆に綺麗に見えた。
彼女は絶対に前髪は上げない。かぐや姫みたいだった。
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富川栄 (ビューティーディレクター小夜子メイク考案者)
資生堂シフォネット(1973年) 撮影:横須賀功光
小夜子は本当は目が丸い、
”小夜子メイク”はバランスを考えながら作った。
赤と黒の小夜子 BEAUTY (1983年) 撮影:横須賀功光 メイク:富川栄
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大石一男 (写真家)
「自我を捨てて、どう手足を出して動けばいいのかは服が教えてくれる」と言っていて、天才ではなく努力の人。彼女がフッと動く事で観客の目はそっちに行く。実際よりも大きく見えた。
酒や煙草で蔓延している楽屋の中、彼女は端っこで一人で本を読んでいた。
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立花ハジメ(アーティスト)
彼女の本棚には『夜想』や稲垣足穂やタルコフスキーがあって、寺山修司やジャン・コクトー、安部公房が好きだった。休日は本や舞台や映画を観て勉強していた。普段もミステリアスで口数は少ない感じだった。
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小夜子をモデルしたパリや日本のショーウィンドウに並んだ「SAYOKOマネキン」はマネキン制作会社のアデル・ルースティン社が制作。2週間かけて小夜子の形を粘土で取った。海外でもその人気を誇った。
セルジュ・ルタンス(写真家)
自分があれこれ言わなくても「煙になりなさい」と言えば、彼女は煙になれる。大人の顔をした少女だった。
-セルジュ・ルタンスとの撮影時には頭を固定されアイラインを片目に1時間塗り続け、リップに2時間、前髪を1本1本書き足して、その後にカツラを被せる。厚いメイクが自分の顔に乗っていて、トイレも行けなくて、水もジュースも飲まなかった。そして撮影は10分、ポーズ時にはフッと息を抜く。-
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横浜生まれで、小林一茶の俳句からとって「小夜子」と名付けられた。
小夜子の同級生でありモデル仲間だった女性
※お名前を失念してしまいました、申し訳ないです※
彼女は中原淳一のイラストや昔のファッション雑誌のスクラップブックを作ってた。私達は背が高かったからショーウィンドウではハイヒールじゃなくていつも低めの靴を見てた。小夜子の母が洋裁をやっていたので、小夜子も服をリメイクしたりしていた。ストーンズのミック・ジャガーが好きだった。
『エムシーシスター』創刊号2号が初めての仕事で、東京でスカウトされて、そこからオカッパにするようになった。学生時代は前髪を横に流していた。
※エムシーシスター:婦人画報社(現:ハースト婦人画報社)発行の10代少女向けファッションを主とした月刊女性誌。1966年に隔月で創刊され、1973年月刊化。2002年に休刊※
やりたいと思っていた事を、やりとげた人。
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36歳の時、14年間続いた資生堂の契約が終了。同1986年にモデルとしては山本寛斎のショーをもって引退。殻を破りたい気持ちから、天児牛大の舞踏に興味を持つように。
※天児牛大:舞踏家。舞踏グループ山海塾主宰。1992年・2014年にフランスの芸術文化勲章を受章。2011年に紫綬褒章を受章※
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山本寛斎(ファッションデザイナー)
「モデルとしては旬を過ぎたね」って「(舞踏は全く違う世界だから)絶対に洗脳されるな」と私は言った。舞台へと移った後に見た小夜子は表現者になっていた、目の開き方が違う。
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46歳、舞踏を動きに取り入れ、14年振りにイッセイミヤケのショーで復帰。ゴルチエが彼女の大ファンであり、’95-96秋冬ゴルチエのショーで2度目のショー復帰を果たした。
他にも、東京都立忍岡高等学校の制服を小夜子がデザイン。切り替えの巻きスカートなど、成長していく中でスッキリとスタイルが良く見えるようにとデザインした。
※参考画像:東京都立忍岡高等学校HPより
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50歳で若手と精力的にコラボレーションをし始める。
下村一喜 (写真家)
ずっとファンで彼女を撮りたくてカメラを始めた。あの人には流行なんて関係ない良さがある。ファッション業界の人達はあまり小夜子さんを大切にしていなかったと感じた。
雑誌で彼女をやっと撮れて、自分の予想していた動きとは違っていた。目が大きくて、でも撮る瞬間に目を細め(自分を)クリエイトしていた。
-亡くなる2年前に彼女のファッション写真を撮りたくなって、表現者としての彼女をモノクロでかっこよく、グラフィズムを押し付けたかった。
講談社『FRAU』 山口小夜子特集号のための撮影 (2005) 撮影:下村一喜
《トークショーにて》
●小夜子さんは人形が好きで、KENZOのショーの後に二人でパリの小さな人形博物館に6時間くらい居た。アンティークの人形の性格とかを妄想しながら二人で話した。
●どんなに早朝とかでもノーメイクを見た事がない、いつもあのままで...。一人を省みる時間が必要な方で、谷崎を読んでいたりした。
●「ひきこもりーず」というのを二人でつくった。
●小夜子さんはいつもほとんど寝てなくて、夜中に朝まで長電話したり。お話が好きで長時間話す事が沢山あったけど、お化粧直しを2回しか見た事がなかった。
●パリ・イエナの博物館で、中国の纏足のホルマリン漬けを見て「勇気をもらった」と言っていた。「自分は縛られていない。もっと表現者として努力したい。努力出来る。」と。
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三代宮田藍堂氏の作品を身に纏った小夜子・これが最後のファッション写真となった(2007年)撮影:下村一喜 **
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丸山敬太(ファッションデザイナー)
子供の頃、資生堂ポスターで彼女の大ファンになった。卒業制作ではディーゼルに小夜子さんの絵を描いた。今も亡くなったとは感じていなくて、月から来て月に戻っていったような気がしている。また何かの時に彼女と仕事が出来ると思っていて、どんな形でも自分のクリエーションの何割かは小夜子さんで出来ている。
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『山口小夜子を再現する企画 ”小夜子プロジェクト” 』
モデル:松島花 衣装:丸山敬太 ヘアメイク:富川栄 撮影:下村一喜
参照画像:松島花さん公式インスタグラムより @hana_matsushima_official
モデルの松島さんは筋が通った上品な鼻が似ており、メイクを施した富川さんをはじめ小夜子が降りて来たように現場は盛り上がった。まだ形に成りきれていない動きではあったが、それが初期の小夜子を彷彿とさせた。松島さんはブルース・リーが好きで空手や太極拳を学んでおり、しなやかな動きを松島さん自身が作っていった。それがより小夜子を思わせた。
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DJもしていた晩年の小夜子が好きだった場所は六本木スーパーデラックス。ホーミー歌手とユニットを組んだり、舞踏の動きを活かしながら朗読をしたり、映像や音を付けたりといった活動もしていた。
山口小夜子
小夜子さんがインタビュー映像中に言った言葉で、私の胸の中で一番勇気が出た言葉があった。
「美しいことは、苦しいこと」
努力家の小夜子さんが当たり前のように言った言葉が私の胸に刺さった。
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2007年8月14日死去 誰にも気付かれずにその場を去るのをモットーにしていた小夜子さんらしい最後だった。それはとても暑い日だった。
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《会場作品展示》
藤井秀樹(写真家)
アタカ
スティーリー・ダン『彩(Aja)』(1977年)
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ペーター佐藤 (イラストレーター)
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染吾郎 (写真家)
Sayko01~Sayko04 (1978年)
”小夜子&ヤッコ”(山口小夜子&高橋靖子)(1972年)
当日会場には写真のヤッコさんも居らしており、この写真に重なるようにお写真を撮られていました。
●あとがき●
ほとんど小夜子さんの事を知らなかったはずなのに、映画が進めば進むほど、とにかく彼女の事を本当に大好きになって、もうその人が居ない事や・新しい何かがもう始まらない事にとてつもなく言い表せない気持ちになりました。お会いした事もないのに、それはとても大好きな友達を亡くしたような気持ちで...また会いたいとすら思うくらいに彼女は魅力的でした。
そして彼女の表現は様々な業界で今も生き続けている事...それに嬉しさを感じました。あらためて、山口小夜子さんのご冥福をお祈り致します。
当日は満員で、さらには会場にはトークショーを行った富川栄さん・下村一喜さんをはじめ、丸山敬太さんや客席にはモデルの富永愛さんもいらっしゃいました。彼女の魅力の不思議を実感しました。
この日のイベントタイトル通り、夜日付が変わる頃には月は地球にとても近くなり大きな満月で、そのとき私達はまた小夜子さんに逢って、皆が思いを馳せたのだと思います。
イベントの企画者様及び監督に作品に感謝を込め、このレポートを残します。
※このレポートは上映中の暗闇の中で取りこぼしたくなくて、ノートにペンを走らせ書きました。(事実確認には注意を払っておりますが、事実と異なる点があればお手数ですがご連絡頂けますと幸いです)※
お読みくださってありがとうございました。
文・写真:こたにな々(ライター) 兵庫県出身・東京都在住https://twitter.com/HiPlease7
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