気高き引きこもりニートが人生語ってみた。
初めましての人も黒歴史製造過程の泥仕合だと思って見て行って欲しい。
私は絵を描いているニート、それだけだ。
はじめまして
小学生からパソコンに強制的に触れ、からかわれない真っ当な夢のない夢を語るのを覚えて、クソダサいパワポを模範とし、不健全な大人が判断した、フィルタリングで覆った汚い世界を子供に見せずに生かす気分は最低ではなかったのだろうか?
現場の先生はギリギリでいつも頑張っていたが、私は良心が痛まない義務教育のシステムが、苦手以上に嫌いだ。
ニートになると思って生きた事はあるか?
私の引きこもりデビューは高校生だった。
理由は分からない。何故かふと急に行けなくなった。
不眠と過眠を繰り返し、同じものしか食べられず、頻発する頭痛、午前中に起き上がれず、気怠い身体、悲しくて涙が止まらず気が狂いそうだった。今思えば、あれは精神疾患の典型例だったのだろうけれど、当時は明け方に毎日押し潰されていく自分自身をじっと傍観することしか出来なかった。
母もきっと娘が精神疾患を患っていると思いたくなかったのだろう。
私が「病院に連れて行ってほしい」といえば、どこの病院ならいいの?と。
田舎、精神疾患、検索……
母なりの気遣いだったのかも知れないが、私はその時点で拒否だと思えた。
ほぼ学校を休み、部活も出れなくなり退部、勉強にはついて行けず、全く出席したことのないテストを受け、それでも意地で出席日数をなんとか維持してギリギリで進級していた。
我ながら、生きる姿は滑稽だった。
”大人の言っていることが正しいとは限らない”のではなく、”たまたま大人にとって正しいだけだった”だと気が付いた頃には、私はもう壊れてしまっていた。
もう少し早く思春期が来れば回避出来たかも知れないとタラレバを思った。
健全な大人になるために、小さい頃から刷り込まれてきた全てが馬鹿らしくなったのと同時に、17年間生きてきた自分の愚かさと、人任せな価値観に乗っかる自分に心底嫌気が差したのを覚えている。
だから、20歳までに死のうと決めた。
こんな自分が大人になれると証明したくはなかった。
1mmも残しておきたくなかった。
私は、私自身がどの面を下げても生きてほしくはなかったし、社会のレールから外れた自分を生かせる程、私は強くないと思った。
そして何より、”死”が私自身を取り戻す最後の”自由”のようなものに見えた。
そうしたら割り切ることが出来たのか、怖いくらい笑顔で生活できるようになった。全てが尊いものだと思えるほどに、強くみえた。
わ〜人間ってゴールが見えると余生みたいに広い心で生きれるのか〜!と当時JKだった私は少し感心して今のうちにやりたいことやっておかなきゃ!とやけに前向きになった。
好きだった演劇を学んでみたり、気になった舞台や映画をふらっと観に行ったり、絵を30時間近くぶっ通しで描いてみたり、友達と遊びに出かけることも、ものすごく増えたりした。
高校3年生になれば、進学校ということもあって、大学進学が9割の中、そもそもギリギリの出席日数で行ける大学がなくて、興味のあった分野の専門学校に行くことにした。
この選択は、妥協というよりは、周りに爪痕を残す為だった。
少しでも一流に触れてみたかった。
好きだけど一番遠い世界に、触れておきたかった。
今思うと、こんな頭狂ってる状態でよく普通に擬態して生きてこれたなと感心すらするが、実際あの日々は…毎日泣いているだけの日々よりは確実に楽しかったし、気が楽だった。感情や環境にただ線引きしていただけなのかも知れないけれど。
器用すぎて、ほんとうに、真の不器用だと思った。
器用とは失敗をしないのではなく、失敗の仕方やタイミングまでもが上手いのだと、高校生活で学んだことの一つだった。
なんやかんやで時は過ぎ、なんとかストレートに高校を卒業し、そのまま上京した。
お金は全て親が出してくれていた。それを当たり前とも恵まれているとも当時は思えず、ただ何度も”死なないで”と私に縋った母に対して、私は夢いっぱいでキラキラした上京した学生を演じて、”これでいいんでしょ?”と軽く鼻で笑うような気持ちだった。
性格が悪いとか言っている余裕はない。育んだ”心”を使い切ってしまった、そんな感覚で生きていた。
最低だと今でも思うが、”死んだ”という事実を突きつけるよりかは遥かに良いことをしている気分だった。
でなければ、親の優しさを、有り難さを、命を、無駄にする罪悪感に押しつぶされてしまっていただろう。
東京で生きるということは、
そういえば、一人暮らしをして初めてトイレットペーパーを買った時、それを手にして街を歩くのがすごく恥ずかしかったのを覚えている。
東京とは、そういう街だった。新鮮だった。
20歳以前に、人生のピークまで持って行くことを使命に生きた。
幸せに、死んでやる。そう思って生きていたのに、私は異変に気が付いた。
ストレスが溜まっていた。
学校が楽しかった。
だから、ただただ戸惑った。
東京で一歩ずつ歩くのは辛く、でもその辛さすらそれすら楽しかった。
昼休みにも課題をやって、すごく時間に厳しくて、人を陥れる事なんてせず、鼓舞し励まし冗談を言い、課題が面倒くさいと嘆きつつ、結局アドバイスし合って提出する。積極的でそれぞれ夢があって、クラスの皆がそういう人たちだった。
私はそういう人間の集団に、初めて会った。
純粋に、嬉しかった。人に産まれて良かったと心の底から思った。
課題は大変だったけれど、ワクワクしていた。
私は、気がつくと、生きる事が前よりも、馴染んでいた。
忙しさを感じたり、人の気持ちに寄り添う余裕があった。
感覚が蘇ってくる実感。
気が付くと課題も授業も1番をとり続けたくて、負けたくなくて、学ぶことに貪欲に生きていた。
こんなにも生きるのに、学ぶのに、真剣で貪欲な人間が沢山居ることが、信じられないのと同時に、すごくありがたかった。
生きること、楽しむこと、騒ぐこと、学ぶこと。
私は全てやった気になっていただけだと、私の人生は始まってすらないのだと、彼らに教わった気がした。
それでも相変わらず、毎日は何となく辛いけれど、ちょっぴり楽しい。以前よりも少し生きることに抵抗感がなくなっていた。
もしも私が、私自身に執着したら、この世界に魅力を感じたら、私は死ぬのが怖くなるだろう。それが恐ろしくもあった。
そして20歳の誕生日、私はボタボタとだらしなく泣いていた。
母からの”20歳おめでとう”というメッセージカードが辛かった。
結局死なずに生きてしまうことが私は東京に来てから何となくわかっていた。ついでに、あまり死にたいと思え無くなっている事が少し寂しかった。
真剣に、生きたいと思えるかもしれない。その希望は私にとっての絶望みたいなものだった。
私の大切な何かが、環境に、そして私自身に奪われた感覚にさえ陥った。
私は、もう何者にもなりたくはないと思って、
そこからは、全て真逆に生きた。
隠れるように、当たり障りなく、生きた。
全てが怖くなった。
家から出れなくなった。
学校に行けなくなった。
出席日数が少ない、夜間のクラスに編入した。
家から出るのに準備を終えてから2時間かかるようになった。
大人になって初めて、心療内科に行った。
不安障害だった。
頭が忙しくて、常にぐちゃぐちゃで、ボーッと何もしていないはずなのに、けん玉しながら縄跳びして英文を読んでいるような意味わからない状態で普通の顔して生きていた。
いつも頭だけが混乱している所為で、何も覚えられなくなる。
簡単に言えば脳のストレージ不足。
その状態で、生活を処理する。
落とし物はないか歩きながら振り返る。ポケットにあるスマホにずっと触れている。人にぶつかって、その人がホームに落ちてしまう映像が駆け巡る。大丈夫、大丈夫、これは全て幻想だ、私の作る、まぼろしだ。大丈夫、さっきまでと何も変わらないのだから。
そう言い聞かせて、自分で自分の頭を撫でるかの様な日々。
それでも私は、病名が付いて救われた。
病気だから少しだけ休んでいいのだと、初めて思えた。
それでも奪われるような苦しさに、周囲の若さが追い討ちをかけてくる。
何だかもう、全てに疲れてしまって、最後は空気のようになりたかった。
私はもう死にたいとは思わない。けれど、生きたいとも思わない。
ほんとうに、散らばったまま。
ダラダラとおわらない終活をしていた。
はじまりのおわりを考えながら
最終回の後、続編があると大体駄作。
それは私の人生も同じなのだろう、と。
私の人生に区切りをつけるとしたら、20歳で分けられると最近まで思っていた。
でも、20歳を過ぎて様々な病気を受け入れ向き合ったりしていくうちに、この先の私の行動にきっとターニングポイントがあるのだろうと思う様になった。
それは前向きとか、そういう事じゃない。
だって私は自分にとって恰好の死ぬタイミングを逃してしまったのだ。
もう20歳に執着してもほとんど意味はないのだろう。
私はもう、辛くても生きていくという術を覚えてしまった。
それには、あまりにも多くの芸術に頼っている。
音楽、絵画、彫刻、建築、肉体。
現代社会は、インターネットは簡単に情報をくれるから、いけない。
全てが私をこの世に未練を残した。
だから私はだらしなく生きている。
死が偉大だという価値観を正当化するのもやめてしまって、
やっぱり私は死ぬ間際、結局大多数と同じ、もっと生きたいと願ってしまうのだろう。
ずっと完成される事のない、絵を描いていた。
それこそ、病める時も健やかなる時も。
肉体よりも、絵が大事なのは多分、ずっと変わらない。
だからこそ私は、いつも音で感情をインプットする。
絵画で人類の偉大さと尊さを悟る。
彫刻で物を遺す意味を知る。
建築で自分を戒める。
これら全てには、Apple Pencilを握れる肉体が必要だ。
だから、生きている。生きる方を選んでしまう。
曖昧なものを可視化して安心してしまえる程、私は強くはない。
毎日、人間としての欲望と折り合いをつけて同居し、人々の作った文化を歴史を愛でる。
生活は人生の一部で、人生は生活では決してない。
だから、美術館に入ることを許されない美しく清らかで愛らしい猫よりも、美術館に入れる醜い自分を愛してしまって、
結局、ずっと生きていたいと思うのだろう。
……バカめ。
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