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第一章 沈黙読書会


 私はその日、神楽坂にいた。
 神楽坂には研修のために数日通ったことはあるが、地理に明るいわけではなく、地図も見ずに勘で動いて目的地とは反対方向へ行くという特技を持つ私は飯田橋の地下道を出たところで手帳を開いた。
 手帳にはこれから訪ねる場所の店名と簡単な地図が書かれている。自分で書いたものなのであまり信用はしていないが、今頼れるものはこれしかない。
 坂の入口で不二家のぺこちゃんが出迎えてくれた。日本でここにしかないという「ぺこちゃん焼き」を私はまだ食したことがない。その隣には「紀の善」。紀の善と言えばあんみつやババロアが有名な老舗の甘味処であるが、『大東京繁盛繁盛記』には「寿司屋の紀の善」、『日本文壇史』には「神楽坂の紀之善という鮨屋」と記されている。戦後に商売替えをしたらしい。出版社の多い場所故、多くの作家たちが集ったであろう紀の善のあんみつに後ろ髪を引かれつつ、てくてくと私は坂をのぼった。
 左手に朱色の門の善國寺。七福神の毘沙門天を祀るこの寺には狛犬ならぬ狛虎がいる。まるでケロベロスのようないかつい骨格をした一対の虎の石像。

 虎……

 肩から下げたバッグに手を添える。バッグの中には一通の招待状と一冊の本が入っている。
 招待状が届いたのは一月前。差し出し人の欄に「不可視の群島 観測所通信局」と記された深緑色の封筒には招待状と手紙が入っていた。
 「親愛なるあなたへ」と書き出された手紙には、私からの手紙を浜辺で拾ったこと、とある島でひとりで暮らしていること、孤独の中で物語を書いていることが綴られていた。そして文末には「観測所の島にて ネモ」。

 ネモ……

 ネモと言えば『海底二万里』に登場するノーチラス号の船長の名であるが、もうひとりネモが登場する物語を知っている。その物語を読んで、私は誰とも知らぬ相手に手紙を出したのだ。
 返事などくるはずのない手紙に返事がきた。
 私はこの手紙を何度も読み返した。私のことを知らないネモ。ネモのことを知らない私。知らない者同士が一通の手紙で繋がる世界。物語ることの恐ろしさも楽しさも知るネモからの手紙は、孤独の中で物語を紡ぎ出す作家からの手紙のようだった。
 そして、その手紙と共に送られてきた招待状は手紙とは全く趣きの違う暗号文にて記されていた。
 私の幼き頃の愛読書は『ぴょこたんのあたまのたいそう』シリーズであった。謎解きの楽しさを教えてくれたぴょこたんのためにも暗号を解きたい。そこで必要となる「鍵」であるが、幸運にもSNS上に貼り付けられていた。世の中には親切な人がいるものだ、「#熱帯暗号」で検索すると鍵はすぐに見つかった。
 暗号で書かれた招待状には日時と場所、この会に関しては口外しなようにと記されていた。
 “Silent Book Party”と銘打たれた会。

 沈黙読書会……

 招待状の最後には「212-5,488-17,70-5,305-17,22-15」という数字の羅列。その数字は私の持つ本とリンクしていた。
 善國寺を目印に神楽坂から脇道へ、石畳の道を進むと目当ての店の前に男性が二人立っていた。「本日貸切」とチョークで書いた小さな黒板がドアの脇に立てかけてある。ドアの前で私たちは思案した。同じ会に参加する(と思われる)三人が暗号による招待状から導き出した店はここである。多分、間違ってはいない。このドアの先にどのような光景が広がっているのか。私たちが共有する本の中では、扉の先へ踏み込んだ者は己の物語を語らねばならなくなる。私にその覚悟はあるのか。

 私はドアノブに手をかけた。

 「当然のお務めとして喜んで、お話をいたしましょう。ただし、このいとも立派な、いとも都雅な、王様のお許しがありますれば!」

 かくして彼女は語り始め、ここに『熱帯』の門は開く。


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