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第二章 カウンターの男
グリーンの扉を開くと、そこは細長い階段だった。扉は店の入口と思っていただけに拍子抜けする。壁は扉と同じグリーン。階段は木目調で急なために左側には手すりが付けられている。
階段をおよそ一階分のぼりきると再度扉が現れた。この扉を開いたらまた階段が……というような舞台を前に観た気がするが実際に扉を開けば「いらっしゃいませ」と怪しげなほほ笑みを浮かべたマスターとL字のカウンターの片隅に座る一人の男性客が私たちを迎えた。
マズい所へ来てしまったのではなかろうか。
今さらながら、これは壮大な詐欺なのではないか。ネモからの手紙につられてホイホイ神楽坂までやってきてしまったが、私は『沈黙読書会』というものがいったいどのような会なのかすらもわかっていない
「池内さんですか?」
共に入店した男性が、カウンターにてグラスを傾けている先客に聞いた。
「私は池内さんではありません。でも『熱帯』の関係者であるということだけ申しておきましょう」
男性客はそう言うと私たちを店の奥のテーブル席へと誘った。
ハートランドを頼みとりあえずの乾杯をする。麦酒で喉を潤しながら「ハートランドを制する者は不可視の海域を制する。不可視の海域を制する者は熱帯を制する」と言ったのはマッキンダーだっただろうか……
バッグの中の『熱帯』のことを思う。『熱帯』の謎は何も解けていない。まだ誰も解いてはいないはずだ。私のような勘と小賢しさで謎を解こうとする人間には不向きな『暗号』が『熱帯』には隠されている。この本は“誰が”“誰のために”作った本なのか?そう、それすらわかっていない。
私たちは軽い自己紹介をした。共に入店した男性二人のうちAさんは私と同じようにネモからの手紙を受け取りこの場所へと来たとのこと。BさんはSNS上に記された池内さんの呟きを見た“とある人物”から「このお店に行けるのはBさんだけではないですか」と諭され該当の店へと行き招待状を手に入れたとのこと。
【池内さんの呟き】
73-1, 358-8-3, 381-1, 141-16, 156-16, 460-16, 339-1
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後にここにCさんという女性が加わるのだが、Cさんは職場の上司がネモからの手紙を受け取り、その上司の代理としてやって来た。
『読書会』と銘打たれてはいるが、手持ち無沙汰甚だしい。
まず、ホストがいない。ホストはどこだ!責任者を出せ!などと声を荒げる者はいないが、妙な緊張感が場を包んでいる。
さて、この酒宴をどうしたらよいものか……
「この中に白石珠子さんはいらっしゃいますか?」
とマスターが問いかけてきた。私は一瞬ためらった。
私は本当に“白石珠子”なのか?便宜上白石珠子を名乗っているだけのまがい物ではないのか?言い換えれば“偽白石珠子”ーーーーーー
京都のバーで“偽電気ブラン”というお酒を飲んだことがある。浅草神谷バー発祥の電気ブランに似ているが、ご丁寧に『ニセ』と大きくラベルに記されていた。その京都のバーを訪れた作家の戯れだと聞いたが『偽電気ブラン』とは粋なものを作る。
太宰は『人間失格』の中で「酔いの早く発するは、電気ブランの右に出るものはない」と称した。
京都のバーを訪れた作家は自著の中で偽電気ブランについて「じつに可愛らしく、まるでお腹の中が花畑になっていくようなのです」と綴っている。
似て非なるもの。
偽白石珠子と白石珠子もそうである。私は白石珠子ではない。しかし『熱帯』を追う者としては同じでもある。
「この中に白石珠子さんはいらっしゃいますか?」
マスターの問いかけに私は右手を挙げた。