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リコリス・リコイル~君の心臓〈セカイ〉を撃ち抜くエモい令和の弾丸。2022年7月~9月 #6:ニューシネマパラダイス
目標と目的は違う。目的のために目標がある。キャラクター、演出、構成、テーマ、音楽……すべてを「高品質」にする、そんな目標をひとつひとつ攻略していく。
その目的は「エモさ」。すべては「エモーショナル」を達成するため。リコリコは完成度の高いエモいシーンを中心に成り立っている。
一例をあげると、人気を決定づけた3話、DAの噴水の前で他のリコリスたちの嘲笑をものともせずにたきなを抱きしめ、高い高いをするようにたきなを抱き上げて回る、通称メリーゴーランドのシーンだ。
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13話で夕陽の浜辺でリフレインされるこのシーンこそ、いかに千束がたきなとの出会いを歓喜しているか、戸惑いながらも千束を受け入れていくたきなの感情を余すところなく表現しており、二人の物語の本当のはじまりに相応しい。どんな台詞よりシーンはエモーショナルである、なぜならアニメーションだから。
「エモい」「エモーショナル」のためにあらゆる資源を動員、投入し集中する。言うは易し行うは難しのシンプルな原則をリコリコは貫いた。また、作品の完成度のみならず、SNSでの積極的な発信(喫茶リコリコ)、映画のように次々とPVを公開していくやり方や、主演声優たちのWEBラジオ、制作陣のなどのプロモーション面も見逃せない。
耳に残りやすくエモさ全開、物語に沿ったOP「ALIVE」ED「花の塔」の効果は言わずもがなである。OPの迸る千束の生命力、EDのたきなのようにも千束のようにも思える感情を吐露する歌詞に、次回を期待しつつ、ハラハラドキドキしながら二人の幸せを願っただろう。
リコリコは目的を達成した。勝利を収めた。視聴者の感情を捕捉し「エモい」「エモーショナル」を実現してのけた。
では、エモい、エモーショナルの果てには何があるのだろうか。
SNSで毎回トレンド入りが話題になったように、実に多くの視聴者がファンが行く末を見守った。
リコリコは実は様々な物語でもあった。
千束とたきなの「二人の時間、選び取る未来」を北極星にゲイカップルの子育ての物語でもある。父と娘の物語でもある。余命僅かな健気な少女の終活物語でもある、挫折する革命家の物語でもある。銃器×制服少女のミリタリズム物語を見出す者もいるだろう。
展開を予想し、謎解きを試み、解釈し論じた。千束やたきなをはじめキャラクターに魅了されファンアートが花開いた。「お祭りのような三か月」がネット上に展開した。作品はイベントだった。
「たまたま人気があったから、ただのその反応に過ぎない。他の人気作品も同じではないか」確かにそうかもしれない。だが、私はそもそもリコリコのエモーショナルを目的とした作り方、「エモさ」最優先を手法としたやり方あってこそと考えている。
うがった見方をすれば、ここまで人気になるとは思っていなかったかもしれないが、こうしたファンの反応は織り込み済みではなかったか。
リコリコは感情を容れる煌びやかな曜変天目のような姿と化す。感情の容れものこそ作品である。
放映終了後幻想の第14話を視聴したというジョークがSNSに大量にあがった。それぞれのファンがリコリコを物語った。
まさに利己利己な物語、だが、それでいい。それをもってエンターテインメントの王道とする。アニメの楽しさワクワク感とはこれだ、と指し示す。
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「みんな自分が信じたいいことをしてる。それでいいじゃん」優しい嘘が包むディストピアの化身となった千束は斜陽の光の中で呟く。
リコリコが果たして時の試練に耐えうる名作といえるかは定かではない。
ただ、現時点では言える。紛れもなく傑作。
主題も在り方もすべてが、落日のこの国、君の僕らの生きざるを得ないディストピアジャパン、厳しさを増す、令和のこの時代に適応しようとした意欲作にして傑作。リコリス・リコイル。
付記 アラン機関について
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※BD3巻によると語源は名無しの権兵衛監督のアラン・スミシーでアランの幸福論とは関係ないようです! 早とちり! だけどこうだったら面白いんで残しておきます。
アラン・アダムスが創設したとされるアラン機関はおそらくフランスの哲学者のアランからきているのだろう。アダムスはアダム・スミスの「見えざる神の手」か?
しかし、アランの説くのは「幸福になろうとしなければなれない」「楽観主義は意思」「与えられる楽より自ら労苦を選べ」「微笑もう。上機嫌であれ」「運命は自分で作る」「あれこれ机上の空論を並べるより仕事と行動に専心せよ」「他者に負の感情を出さないのは礼儀」「人を支え楽しませるべし。それが自分を支える」・・・・・・
そう、まるで千束の人生哲学なのだ。与えられた使命に従い神の与えたもうた才能で世界に貢献することが幸福であるとアラン機関とは真逆の思想である。
そもそもアラン自体体系的な理論家というわけではなく、幸福論も新聞に連載されたエッセイであり、とっつきやすいし、人生訓的であり、悪く言えば自己啓発本のはしりのように思える。
アランの幸福論の一節では、アレクサンドロス大王の馬、ブケファロスは狂暴な悍馬ではなく、己の影に怯えていただけであり、他者の性向を軽々に判断することを戒めている。
ここまで真逆なのはかえって怪しい。これは私の推測に過ぎないのだが、愛する親の言うことに叛き、押し付けられた使命を拒否することこそ、真の通過儀礼であり、千束はテストに合格したのではないか。
吉松は完全なピエロで、本人の気づかないまま、最初から捨て石で拒まれる父親の役を演じさせられていた。支援対象者と接触している上、二度目の救済をしようとして完全に違反しているという。千束は特別な存在なのではないか。千束はアランのペンダントを捨てたが、捨てることこそ必要であった。他のアランチルドレンは所詮親の言うことを聞いているだけの小粒のいい子なのである。
拒否した千束こそ実はアラン機関の本意に叶う愛娘、アラン機関の後継者に指名されているのかもしれない。
ちなみにアラン自体は今はほとんど人気の無い哲学者であり、研究する者も少ない。また晩年、反ユダヤ、極右、ナチスドイツの熱烈な支持者であったということが死後暴露され評判を落とした。このあたりのダーティーなイメージもアラン機関の造詣に一役買っているのかもしれない。