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ブッダの瞑想法−−10日間の心の手術 2009/09/16〜27[day5]

■9月21日(月)

 修業5日目。いつものように朝4時に起きて瞑想に入る。昨日のヴィパッサナー指導で2時間動かないことに耐えたあと、グループ瞑想では1時間座っていられるようになった。そこで考えたのは、心と体の関係である。心を平静に保ち、傷みを観察していることで傷みを感じなくなるのだが、はたしてそれは、肉体のダメージが消えてしまうのか、肉体のダメージはあるけどそれを感じなくなっているのか、どっちなのだろうと疑問になったのだ。

 30分ほど足を組んで瞑想をしたあと、次に正座をしてみることにした。これまでなら5分と持たなかったのだが、傷みを客観的に観察することで、姿勢を崩さなくてもいられるようになった。これは自分でも驚くほどの進歩だった。とりあえず1時間を過ぎたので中断してみると、やはり足首などはかなり傷みが残っているが、以前のように足がびりびりしびれた感じになって歩けないほどではない。しばらく外に出て、足を延ばしたり足首を回しながら考える。

 体のダメージは少なくなっているので、
 もっと心を鍛えれば、肉体も強く丈夫になるのだろうか?
 それとも肉体感覚と心をいったん切り離すためにやっているのだろうか?

 先生がやって来て、ゴエンカ氏の詠唱が始まったのでホールに戻る。詠唱を聞きながら、頭ではさっきのことを考えている。もし心を鍛えることで体が丈夫になるのであれば、病気が治るのではないか? 体にチクッとした傷みを感じたときに、それが表面に現れた感覚なのか、肉体的なダメージの何かのサインなのか、どうやって見極めればいいのだろうか? 極端な話、心を鍛えれば筋肉もつくのだろうか?
 心を鍛え、食べ物に気を遣うことで、そこから生まれる体の細胞はきっといい性質のものになるだろう。ならば、結果的に病気にならない体になるのもおかしくない。

 朝食後、散歩をしながらこれまでを振り返る。だんだん講話の内容が思い出せなくなってきた。寝る前に確認し、起きてからも再確認しているのだが、それでもしだいに脳の記憶スペースが埋まっていたようだ。たしか、同時に覚えられるのは7つまでと本に書いてあったような気がする。7つの項目というより、7日分くらいは覚えられるのかもしれない。
 8時からグループ瞑想が始まる。この1時間に動かないで集中するのは、精神的にも肉体的にもかなり疲れがたまってしまう。とにかくグループ瞑想だけは集中して、残りの瞑想時間はなるべくテントで休むことにした。

 昼食のメニューは、ご飯とひじきだった。昨日はアボガドサラダのようなもので、基本はおかずが一品のみ。アボガドサラダはおかずには向かないと思ったが、今日のひじきだけというのはなんとも寂しい。もう少ししっかりしたものを食べたいと思うが、そんなことは考えてはいけない、ありがたくいただかなければと思い直す。
 日本ヴィパッサナー協会の活動はすべてボランティアで行なわれており、合宿コースも寄付によって運営されている。合宿の参加費用は食費、宿泊費を含めて、いっさい請求されない。すべての経費は、コースを終了し、ヴィパッサナーから恩恵を受けた人たちの「他の人たちにもこの機会が与えられるように」との思いから行なう寄付によってまかなわれている。瞑想を指導するアシスタントの先生も、仕事を休んで指導に当たり、報酬を受け取っていない。合宿コースの運営メンバーも全員ボランティアとして参加している。
 これはつまり、出家者と同じ条件で修業をしていると考えていいだろう。出家した者は、托鉢をして家を回り、人々から食べ物の施しを受けながら修業を続けている。いっさいの仕事を辞めて、人生のすべての時間とエネルギーを修業に費やすのが僧侶の生きる道である。托鉢で人から分けてもらうなかには、食べ残しのものもあるだろう。食べ残しだから肉や魚をいただくこともあるかもしれない。だからお坊さんは、本当は肉や魚を食べてもかまわないのだ。

 守らなければいけない五つの戒律のひとつに「不殺生戒」がある。生き物を殺さないことのなかに、植物(野菜など)が含まれていないことをずっと疑問に思っているのだが、はたしてブッダはどのように説明しているのだろうか? 栄養面から考えると、植物は人間が生きて行くために必要なものであり、動物の肉はそれがなくても困らないと考えるなら納得がいく。ほかの命をいただいて自分が生かされていると思うなら、動物も植物にも違いはないはずだ。だとするなら、生きるために何かを殺すことなら許されるのだろうか?

 お昼休みの時間、朝の正座実験のことを先生に質問すると、体を痛めつけるのが目的ではなく、心と体を切り離すために行なっていると言われた。チクッとした傷みを感じて病気かと思ったら、まずは病院に行くこと。ヴィパッサナーは心の浄化が目的であって、病気を治すためのものではないということを確認できた。
 13時からの瞑想は、昨日感じたような感覚は弱くなっていて、あいかわらず頭と胴体は何も感じない。2時半からのグループ瞑想もなんとか座っているだけの時間を過ごし、そのあとの瞑想時間もテントに戻って休む。とにかくグループ瞑想の「決意の時間」で精神力も体力を使い果たしてしまう感じなので、その前後の瞑想時間はほとんど何もできなかった。
 1時間動かずに座っていられるようになったので、18時からのグループ瞑想は目を開けないことに挑戦する。これまで時間を気にしてときどき時計を見てきたが、暗いうえに眼鏡をしてないから時計が見にくいので、時間は気にしないことにする。
 なんとか1時間をやり過ごし、19時半から講話が始まる。

 身体の限られた部分で呼吸を観察するところからはじめ、
 身体中の感覚を観察するところまで進んできました。
 痛みはあります。苦しみはあります。
 けれどもそれに反応・反発しないで
 観察することを続けました。
 医者は患者を診るとき、
 その人がどんな病にかかっているかを調べます。
 原因がわかれば、
 それを取り除くことによって、
 その患者の病を癒すことができるのです。
 ここでも同じです。
 みなさん一人一人が医師です。
 自分で病を癒すのです。
 病の原因を取り除くための努力の一歩一歩が、
 癒しの一歩一歩となるでしょう。

 ブッダは「人間には限りない苦しみがある」ことに気づいた。生まれ、悩み、期待を裏切られ、思うようにいかず、老い、そして人はいつか必ず死ぬ。悲しくて苦しいことだが、あらゆるものが生まれ、そしていつか死んでいく。それは普遍的な事実だと、受け入れなければならない。
 ではその苦しみの原因はどこにあるのか? それは、ここちよい感覚や嫌な感覚に対して反応するときに生まれるという。ここちよい感覚に対しては「もっと感じたい」という渇望が、嫌な感覚に対しては「感じたくない」という反発する心がある。その執着心が、苦しみを生むというのだ。

 人は人生において、3つのタイプの執着を生み、それを育て続けている。まず官能的な満足を求めるという執着心。麻薬中毒のほかに、煙草やアルコールなど、欲求にはキリがない。
 次に「私」「私のもの」と呼ぶものに対する執着。人は自分の考えや信念、信仰に執着してしまう。だれかに批判されれば反論したくなるし、自分と違う意見は受け入れようとしない。自分がかけている色眼鏡でのぞく世界がすべてで、他人が持っている色眼鏡の色が自分と違うということさえ考えない。自分の偏見や信じていることの色眼鏡を外せば、現実をありままに見ることができるのに。
 また、儀式や儀礼、宗教的修行方法についての執着もある。自分と同じ儀式をしない人は信仰心がないといわれることもあるだろう。さまざまな宗教の存在は否定しないが、儀式や教典などにとらわれてしまい、その本質を見失っていることはないだろうか。

 では、執着はなぜ起こるのか? ブッダは、それが「好き」「嫌い」という反応・反発によることに気づいた。では、なぜこの瞬間の反応が生まれるのか? ヴィパッサナーで感覚を観察するときに、気持ちいい感覚はもっと感じたいと思い、嫌な感覚は逃れたいと思うことがあるということは、自分の体験としてわかってくる。
 反応は、感覚器官が何かと接触することで起こる。目に映るもの、耳に聞こえるもの、体に触れるものなど、接触が生まれるとき、身体には感覚が生まれている。では、接触はなぜ起こるのか? 視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の5つの感覚に加え、心も思考や感情や記憶と接触している。
 ではなぜ、6つの感覚器官があるのか? それは感覚器官によって世界を認識するためである。生命の誕生と同時に、感覚器官も生まれるのだ。ではなぜ、生命の流れがあるのか? それは意識の流れがあるから。意識は、この瞬間から次の瞬間へ、ひとつの生涯から次の生涯へと流れ続ける。では、なぜこの意識の流れがあるのか?

 ブッダは、
 それは反応(サンカーラ)によるものであることに気づきました。
 心の反応のひとつひとつが、意識の流れに勢いをつけます。
 意識は反応という原動力によって流れつづけるのです。
 それでは、この反応はなぜ起こるのでしょうか。
 ブッダの眼には明らかに見えました、
 それが無知ゆえに起こるということが。
 人は、自分がしていることに気がついていません。
 自分が反応・反発していることに気がついていないのです。
 反応・反発をつづけるかぎり、
 無知であるかぎり、
 人は苦悩しつづけます。

 ブッダは苦悩の起こる過程を探ってゆき、ついに、その根本原因は無知であることをつきとめた。自分という存在に執着していたら、苦しみはいつまでも消えない。好きなことや嫌いなことに反応し続けることで、それが雪だるまのように大きくなり、やがて自分を苦しめることになる。
 新しい反応(サンカーラ)を生むことをやめるとき、自然に古い反応が心の表面に浮かびあがり、同時に体には感覚が現れてくる。そのとき、心が反応しなければ、それは消えてゆく。するとまた、別の古い反応が浮かびあがってくるが、平静に観察していることでそれも消えていく。

 あるとき、ゴエンカ氏の元に遠くから老婆がやってきた。老婆は、嫁入り道具の小さな指輪と親しい人から餞別でもらったわずかなお金と氷砂糖を持っていた。朝の詠唱に参加した老婆がテントに戻ってみると、悲鳴を上げている。驚いた周囲の人たちは老婆の様子を見るが、激しく泣くばかりで原因がわからない。ほどなく落ち着いたときに話を聞いてみると、大事にしていた嫁入り道具の指輪と餞別を入れた袋がなくなっているというのだ。指輪は高価なものではないし、餞別もわずかな金額だったので、周囲の人たちはカンパを募り、元の額の何倍ものお金を老婆に渡した。けれども老婆は納得しない。自分の嫁入り道具の指輪でなければ意味がないというのだ。けっきょく、氷砂糖目当てにサルが袋を持ち逃げしたのを見つけ、袋は取り戻すことができた。それでようやく、老婆は落ち着いたという。執着心というのは、それほど人を苦しめるのである。

 また、貧乏な村に住む人が、友人が立派な家を建てたことをうらやましがる。自分も大きな家を建てたいとがんばって仕事をして、立派な家を手にするが、部屋はがらんとしていて、友人が持っているような立派な家具がない。またがんばって働き、家具を手にすると、今度は友人のベンツがうらやましくなる。自分は軽自動車だ。そうやって、渇望・欲望の連鎖にはキリがない。原因があって結果があり、その結果がまた原因になって次の結果を生む。その繰り返しが続くのである。
 講話のあと、翌日の瞑想の課題が出されたあと、いつものように終了。テントに戻って寝る。

イラスト|マシマタケシ

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よしみん|旅するトレーダー
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