言葉を使って何ができるの?
落ち込んだ時に、出会った言葉に救われたことがある。何だ、そう考えれば大したことないじゃないと、気持ちが楽になった。それは耳にした言葉であったり、読んでいる本の一節だったりした。
だから私も、誰かの心の支えになりたいとおこがましいことを願うようになった。でもいざいざ文章を書こうと思うと、思考が止まる。手も止まる。どうして?言葉の力を信じて書けるんじゃないの?自分に問いかける。
友人から話を聴いもらってよかったと、何度も言われてきた。思い起こせば、そんな時の私は、話を聴くことに集中している。自分がその立場だったら、どう感じてどう行動するだろう。想像を巡らさせて、思いついた返事や相槌を打ち、気がつけば、自分がその体験をしたような気持ちになっている。話始めは暗い表情の友人が、段々と明るい表情になり、心の内を吐き出すかのように言葉を繋ぎ、最後にはサッパリとした顔で、そうよね、それでいいのよね、と、話し終わる。
人の話を聴くということは、相手の思いをすべて心から吐き出させるということ。言葉にして声に出して話すうちに、自分の心の中に隠れていた答えが見えてくる。話す人は、聴いてくれる人にアドバイスを求めていない。自分のモヤモヤした気持ちをすっきりさせたいのだ。自分が答えを持っていると、無意識のうちに分かっているのだと思う。
だから、私はその時には、特別な言葉を相手に伝えたわけではないのだ。私の言葉に力があったわけではない。ただ、呼び水のように、少し言葉を足したことによって、相手の心の詰まりが取れて、思いが流れ出したのだ。そのきっかけを作っただけのことに過ぎない。
私の言葉発信は、受け身だと思う。自ら訴えたいことがすぐには出てこない。けれども、自己表現をしたいという思いがある。自分の中にあるものを解き放ちたい。それなのに、自分の主義主張といった芯がないということか。相手によって変化する私の心が、その時の言葉となる。他人の存在があることで、自分の言葉を発信できて、自分も存在することを知る。
「自分とは何か、何ができるのか」
人類は永遠に問い続ける。答えはひとつではない。自分だけに当てはまる答えを見つけ出さなければ、漠然とした焦燥からは解放されない。これからもその答えを探しながらもがき、時に焦るのだ。声を上げて発言できる人は、その行動を起こせるだけでも力がある。それが生きがいになり充実感に満たされて、幸せと感じることもあるだろう。
「私が成すべきことを果たすために、言葉を使ってできることは何か。」今日も自分に問いかけている。