ジャッジしなくなったなと感じたこと
最近言われたこと。
仲間内でのことなんだけど、どこにいても、人が複数いたら、ちょっとした食い違いからいざこざ的なものが起こることはある。
とある方が、そんないざこざの渦中で、当事者にこんな話をしたと教えてくれた。
「そんなにその人のことを言うのだったら、なんの悪気のないかなさんに聞いてもらって!って話したんよ。」と。かなさんなら、どんな話を聞いても、その事柄から相手を判断したり、陥れたり、いじめたりすることって絶対ないからね。とのことだった。
ここで私が思ったことは、その方にはそんなふうに見られているのかと言うこと。確かに、相手の話に「そう感じているんですね」と受け止めることはあっても同調はしないしな。
そんな自分の話の聞き方を、中には「手応えがない」「基本いいとしか言わない」「面白くない」などと言われることもある。その相手にとって、大事な話になればなるほど、意見を求められたときにしか、自分の思いを言わないこともあるし。
けど、同時に、「どこまでも受け入れてくれる」と言うことも言われる。
相手の感じていることだから、私とは同じことより違うことの方が多いのは当たり前。
その人が感じたことだから、その人にとっては何を思っても正解なのだと思っている。
私の正解とは違うのが当たり前だから、私の感じ方とは違うのが当たり前だから、どう思ったとしても「そうなんですね」が私の思うこと。
その中でも、私の意に反することも、好みではないことも確かにあるのだけど、だからと言って、意見を戦わせることが目的ではないし、その人が、その人なりの答えを見つけて進めることや、自分に沸いた感情を受け止めること、自分の思いに自分で気づけることができたらいいなとは思っている。
けど、↑なことは思っていても、実際話を聞いている時は、「無」かもしれない。
相手はこう認識しているんだな。ただそれだけ。
自分の身体を認識するようになって、認識するときは、ジャッジは全くしていない。動きにくさを感じたとしても、それはそれ。「動きにくいな」以上。今の事実がそうなのだから。いいと悪いとかではない。
で、じゃあ、「動いてるとこはどこだろう?」って視点を変えることはある。
ジャッジすることが減ったな・・・。
そんなことに気がついた話でした。