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奇跡の収まり

 祖母の桐箪笥、三棹あるうちのどれか、いつか自分の家を持ったら一つもらうと決めていた。
 一緒に住んでいた祖父母とは、私の父の伯父夫婦である。伯父夫婦に子どもがなかったことから、私の両親が結婚と同時に夫婦養子縁組で家に入った。子どもを育てた経験のない祖母は、嫁の母を実の娘のように、孫の私はもはや溺愛レベルで可愛がってくれた。きっとリアルではできなかったお母さん業に遅ればせながら懸命に取り組んでいたのだろう、と今当時の祖母の年齢に近づいた私は思いを馳せる。そんな祖母は、私が小学校入学直前の3月にちょっとした風邪を拗らせて、あっけなく亡くなってしまった。まだ65歳だった。今祖母が生きていたら、私の家事の手際のよさをみてもらいたいし、私の手料理を食べてもらいたいと思う。どちらも祖母の腕前に比べたら足元にも及ばないだろうが、よくできているとニコニコ笑って喜んでくれるに違いない。そのくらい母と私の中での祖母の思い出は、温かくて優しいものばかりだ。
 
 結婚してやっと持てた自分たちの家は集合住宅、いわゆるマンションの一室だ。すごく狭いというわけではないが、少しの遊びもない、なんというか「ぴったりの広さ」なのだ。全ての生活が想定されていて、ご飯を食べるだろうところにはダイニングテーブル、くつろぐだろうところにはソファやテレビ、各室にはクローゼットとよばれる作りつけの収納がありその室に想定される家具はベッドと机と本棚・・・といったように置き家具まで想定されている。そして、その想定される中に「箪笥」はない。

 置き場所もなく、そもそも桐箪笥にしまっておくような服など全く持っていない今の私に、祖母の桐箪笥は本当に必要なのだろうか。必要か必要でないか、合理的な思考で考えれば、全く必要ではないのだが、祖母が亡くなって数十年経った今でも心がどうしても欲しい、私が持っていたいと感じるのだ。

 全く遊びのない「ぴったりの広さ」と思っていた室の中に、ふとなんだこの凹みは?という場所が1箇所だけ見つかった。主寝室を想定する部屋の、扉の内側である。室に向かって扉を押し開けると扉で隠れてしまう場所。そこがなんともちょうど箪笥が収まりそうだ。測ってみると奥行きも幅も祖母の桐箪笥三棹のうち、一番小さい一棹がちょうどよさそうだ。実際に箪笥を運んで置いてみたら、左右は指1本も入らないほど、奥行きは壁面に全くの段差が出ないほど、祖母の箪笥は初めからここに置く決まっていたような見事な収まり具合である。
 本当は一番大きい箪笥がよかったのだけれど、一番小さいというところが祖母と私らしい。


扉の裏側の凹みにピッタリ造り付けのような祖母の桐箪笥


奇跡の収まり!

#熟成下書き

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