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年下の先輩

私にはたくさんの「年下の先輩」がいる。
年下、という言い方はあまり好きではないけれど、年齢は私より若いけれども「先輩」であるということを強調するために、あえてこの言葉を選ぶ。

昔、セーリングを習い事の一つでやっていた。OP(オプティミスト)という世界一小さいヨットに乗るのが週末の習い事。そこのクラブチームはいろんな年齢の人々が集まる。そして、子どもながら上下関係はそこにきっちりと存在する。
毎年4月に新人が入部して、先輩やコーチに操船技術を習う。そこから次第にレースに出場して、競い合う。私は46期生として、そのクラブチームに入部した。同期は年齢が様々で、私より年下も年上もいた。年齢制限はないから、どれだけ歳が違っていても同じ年に入部した同期とは年が違ったとしても同等に話す。
同期が多種多様な年齢層ということは、必然的に上の〇〇期に私よりも年下の人ももちろん大勢存在する。私より3-4期上だけれども、同い年だったり年下だということは常に起こる。それでも上下関係と力関係が存在するスポーツであるため、先輩と後輩として接し合う。敬語で話さなきゃいけないとかそう言ったことではなくて、どうやってやるのか教えてもらうことやクラブハウスの使い方やルール、アドバイスを求めたり、先輩の代わりに何かを手伝ったりと「行動」の面で先輩と後輩の関係が明確になる。船を代わりに洗っておく、コーチのゴムボートを出しに行く手伝いをする(物理的な力や身長などで男女差はあったけれど)など、頼まれごとをすることもある。
私の周りには多くの年下の先輩がいた。ロープワークを教えてもらい、装備の使い方など基本的なことを教えてくれたのは全部、その年下の先輩たちだ。

「年下の先輩を持つ」「年下の先輩に教えを乞う」
この経験はなかなか手に入れることができなかったのだ、と最近気がついた。
社会と人間の営みの自然な流れとして、自分より長く生きている人が先輩になり、自分より若い存在は後輩と、無意識に振り分けているシステムによってこの世の中の大半は成立している。だから、自分より若い存在が先輩ということは不思議な事象であり、年下に教えを乞うということは何か自分が劣っているのではないかという劣等感を誘発しやすい。それだから、攻撃的なことが起こりうる。
そう考えれば、私がまだ社会の海に出る前の柔らかな精神の時代に出会った「年下の先輩」というのは、本当に得難い経験と繋がりだったのだと思う。
その経験があったからか、私はどんな小さなこどもからでも1人の人として尊敬し、「学ぶ」姿勢を崩さないことを徹底している。

この冬セメスターでは弦楽五重奏に取り組んでいる。出身も学んできた場所も母国語も年齢も違う豊かなメンバーと共に音楽を作る時間はとても楽しい。
そんな中、メンバーに驚かれたことがあった。
あるリハーサルの時に、一箇所だけ私がどうしても周りと上手く噛み合わせることができなくて非常に悩んでいた。リハーサルが終わり、しばし悶々としていたところにメンバーの1人で同じ日本人の女の子と話していた。彼女の方が私より年下だけれども、私はごく自然に「あの部分はどうやって弾いたらいいと思う?」と質問をし、その流れでミニレッスンをしてもらうことになった。
彼女が何を思ったかはわからないけれど、アドバイスと実際に一緒に弾きながら意見を聞いたりした。
次のリハーサルの時に問題の箇所をすんなり進めることができ、私が「この前のリハーサルの後に彼女にレッスンしてもらったの」という話をメンバーの1人にしたところ、かなり驚かれた。というのも私の年齢と彼女の年齢を知っている人からしたら、年上の人間が年下に”教えられている”という光景は少し異様に映ったらしい。
少し心配したのは、私にミニレッスンをしてくれた女の子が「年上に教えたりするなんて傲慢だ」とか「年下なのに何をやってるの?」と言った視線に晒されないかと思ったのだけれど、メンバーは逆に私がなぜ年下の子から習ったのかというところに驚いていた。
また私の音楽や音に対しての要求が多くなったとしても、私が反発したり反抗したりすることなく、「なるほど」だけ言って相手の意見をするすると受け入れていくこともメンバーたちには珍しかったらしい。

時々、脳が2つとか3つとかあればいいのに、と思う瞬間がある。
パソコンの4コアとか8コアとかみたいに、自分にもっと脳のキャパシティがあったらいいのにと。
残念ながら人間には1人1つしか脳がないから、それをどうやって使うか考えなくてはならない。私にとって他の人からの意見というのは、ある意味で第2・第3の脳だ。自分では思いつかないアイデアや物事の見方、感じ方、思考法…etc.
特に音楽のリハーサル中は色々なアイデアを欲する時に、議論を重ねる。そこに出てくることはもちろん自分と同じこともあるけれど、180°違う対極にあるような意見だって出てくる。私にとっては真逆のアイデアや意見というのは、垂涎ものに近い。なぜなら、私の脳から出てこなかった新しいアイデアだから。
自己中心的だと思われるかもしれないけれど、他の人からの意見やアイデアは自分の第2・第3の脳からの意見と思えば、たとえ自分に対して厳しい意見だったとしても拒絶せず、なるほどと受け入れることができると思う。
その意見を自分に取り入れることで、自分の脳に新しい視点や視座が生まれるのであれば、出てきたもの全てを取り込むことに対してさほど抵抗はない。というのが私の考え方である。
そこに年上・年下は関係ないし、優劣も存在しない。
たとえ相手が生まれたばかりの子どもだったとしても、学ぶことはある。動物からも植物からだって学べる。極端に言えばそうなる。

年下の先輩、と聞くとやはり少し不思議に思うかもしれないけれど、年齢など関係なく1人の人間から学ぶということには変わりはない。どんな些細なことでも学びを得られるのであれば、どのような人に対しても尊敬の態度で接していたいと私は思う。
子ども時代に年下の先輩がいた経験が、まさか20歳を超えてから活躍するとは思っていなかった。そして自分の思考回路や考え方に影響を及ぼしていたとは気がついていなかったけれど、これからの私の強みになるのかもしれない。
そう思えば、また新しい視点が生まれてくる。
今いるドイツの音楽大学にも、たくさんの年下の先輩はいる。日本よりも飛び級システムが整っているため、若い学生は多くいる。学べるものは全て学び取りたい、そう貪欲に音楽と知識、経験を欲していたいと思う。逆に、どこかで満足してしまったり満ち足りた感覚を得てしまったら、そこで成長が止まってしまうのではないかという怖さは私の中に常にある。だからこそ、毎日の生活や学びの時間に”新しさ”や”未知の経験”を求め続けて、自分を試し続けていく環境に積極的に身をおいていこうと思う。

Jeder kann von jedem lernen.
Man lernt nie aus.

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