No.218/ありがた迷惑に気づかない
2024.08.05
こんにちは、くのてつです。
この土日は子どもたちの運動能力を測定してきました。
一応仕事ではあるのですが、自分にとって専門領域としている分野なのでライフワークのような、楽しみの一貫のような、そんな時間でした。
そこにサービスという視点が入ってくるので、それがストレス…というかただ楽しめない自分への負荷になるのがジレンマ。
保護者は黙って見てなさい、というのがまず一番。
誰のための測定なの?と思うシーンが随所に見ることができます。
つまり、親の都合、面子を気にしすぎてないか?ベクトルが自分に向きすぎてないか?ということです。
例えば、純粋に子どもたちの今の能力を見たいこちらの狙いとしては、何も言わずに好きにやらせることです。
その狙いは事前に保護者に伝えるものの、いざ測定が始まると、「こうしよう」とか「ここがポイントだぞ」とか身勝手なアドバイスを始めます。
それのおかげで動きが良くなるケースは面白いことにあまりありません。
逆にもっと動けただろうな…というミステイクになる確率が上がっている気がします。
これは一つのシーンに過ぎませんが、親や大人のアドバイスって割と「ただのありがた迷惑」なのでは?と感じることが多くある訳です。
この観点って実は簡単に流されてしまっているのではないでしょうか。
流されているというか、災害時の正常性バイアスと同じように、「そんな訳ない」とか「この視点で大丈夫だろ」とかそんな心理状況なのだろうと思います。
かくいう自分がそうだったし、ごく一般的な大人であったので、それは多くに共通している確率が高いという仮説でしかありませんが。
ただ、指導者、コーチとしての立場になって過去の自分は完全に自己否定しています。
あの頃の自分はいかに未熟で子どもたちの成長機会を奪ってしまっていたのだろう…。
と振り返ることができます。
これは現在進行形ですが、昨日の自分より今日の自分の方が引き出しが増えているので、確率を上げることができるようになっています。
そうなると、昨日出逢った子にはごめんね…となるし、一昨日に出逢った子はもっとごめんねだし、キリがなくなりますね。
そうやってごめんねの対象になる子がいるから自分を日々成長させるために精進する訳ですが。
この一連のトライアンドエラーを重ねようやく気づけたのが今の考えなので、そんな環境にない大人には難しいことなのかも知れません。
大人がもっとそんな機会を持ち、より善い状態を見出せる仕組み、仕掛けができないものだろうか…。
そんなことを考えた一日でした。