わたしという誰かの演劇_008
わたしのいるところで、演劇がはじまる。
わたし こんなに長くひとりでしゃべるのってはじめてです、毎日毎日、書いていて、しゃべっていて思うのは、いまこうして、かろうじて言葉をつないでいるあいだ、わたしの中ではいくつかの思考のラインが同時に走っていて、クルマが車線変更するみたいにそのラインを乗り換えていく、ときにはUターンしたり、いきなりワープして全然知らないところに出てみたり、全然知らないところかと思ったら、あれ、まえにここ一回来たことあるな、とか、よく知っていると思っていた場所で道に迷ったりだとか、道だと思って走っていたのが道でもなんでもない、たとえばそうだな、巨大なウミガメの背中の上だったりして、進んでいると思っていたのは、ただそのウミガメが泳いでいたからで、わたしは甲羅の上でずっと足踏みをしていただけ、そういうこともあったかもしれない、書くこととしゃべることが重なっていて分別することができない、誰にも読まれない文章を書くことと、誰にも見られない演劇をすることの違いってなんでしょう、誰にも読まれない文章は文章でしょうか、誰にも見られない演劇は演劇でしょうか、それは存在しているといえるのでしょうか、存在しているとして「存在している」と言うのは誰でしょうか、読んでないのに、見てないのに、そもそもその誰かは存在しうるのか、答えを出すつもりのない疑問を投げかけるのは駄目ですか、「駄目だ」と思うのはなぜでしょうか、わたしが先まわりして代弁しているは誰の気持ちですか、いまわたしがいるのはウミガメの背中の上ですね、気づいたら四方を海に囲まれている、ウミガメはわたしのことなんて気にせずに進んでいきます、わたしには北も南もわからないけれど、彼には、彼女かもしれないですけど、わかるんです、自分の進む方角が、わたしの開くテキストファイルは下へ向かっていきます、文章を書くとき、たとえばそれが横書きなら、下へ向かって書いていく、それが文章の進む方向、左から読む言語もあれば右から読む言語もあり、横書きもあれば縦書きもある、地球上には存在しないある言語では、横でもなく縦でもなく、円を描くように文章を書き、その文字のひとつひとつには奥行きがあって、手で触って読むこともできますし、口に含めば味もして、その味だけでしか表現されない彼らの文学もあるそうです、わたしはいまこれを日本語で、横書きで、下に向かって書いていますが、彼らの言語に翻訳するとそれは人間にとってちょうど、ほうれん草とベーコンを一緒に炒めたものと同じ味がするそうです、朝食にいかがですか、
また明日。
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