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ドイツやパキスタンで「ニーハオ」と中国人と間違われることについて

日本人でないと思われる事が多い。高校時代を過ごした海外のインターナショナルスクールでも「どちらかと言うと中個人(華僑)ぽい」と言われてきた。シンガポール航空に乗った時に私にそっくりのシンガポール華僑のスチュワーデスがいた、と友人に伝えられ、それを勲章の様に思っていた。

小学校は冷戦時代の西ドイツで現地校に入学したので、知らない子に「チンチョンチン」とからかわれることや「Chineseシネーゼ」と揶揄されることは常だった。<鼻が低いPlattnase> <パンケーキPfannkuchen>とか<目が吊り上がっているSchlitzauge>と知らない男子に囃し立てられた。

通りすがりにランドセルを傾けられ、尻餅をついていた一年生は二年生にもなると、勇ましく言い返す様になった。「バッカじゃないの!日本人と中国人の違いも分からないの!Bist du blöd oder was? Kannst du noch nicht mal zwischen einem Japaner und einem Chinese unterscheiden?」

反撃と戦闘体制

見知らぬ男子に言い返す言葉を、ドイツ人のクラスメイトが一緒に考えてくれた。「魔女の鼻 Hexen Nase」「ぼこぼこ顔 Huppelgesicht」「丸い目Rundauge」。
叫び返される方は、反撃に驚き、聞いたことのないフレーズにキョトンとしていた。

「見てごらん、中国人がいるよ。Guck mal, da ist eine Chinesin.」と女の子たちがこちらに向かって言っているのを聞きつけたことがある。オーストリアのキッツビュールでのスキー学校の始まりの日の集合中だった。ドイツ生活も終盤の小学校4年生はスキーブーツでのっしのっしとその二人に歩み寄って、いつものように訂正して、踵を返して定位置に戻った。
多分、喧嘩腰だったと思う。「バッカじゃない」で始めた定型文だったと思う。

あっけに取られた彼女たちは、しばらくして私と妹に近づいてきた。私はまだ身構えている。

「ごめんなさい、知らなくて。Entschuldigung. Wir wussten das nicht. 私はロミーナ」と自己紹介と共に握手の手を差し出した。流暢なドイツ語だったけど、ルーマニア人だった。聞き慣れない名前に「ローマのRomにinaでロミーナ」と教えてくれた。それをきっかけに仲良くなり、保育所がわりに預けられていたスキー学校で、夕方はロミーナとその友達と一緒に親の迎えを待った。

1970年代のドイツではアジア人は十把一絡げだった。でも一度だけ日本人であることで揶揄された鮮烈な記憶がある。
6年生の夏休みに日本からドイツに「里帰り」した時に、年長の男子にからかわれて、Arschtrittと言われるお尻を蹴るふりをした。小学校からの友人コリナのお兄さんの友達だった。ふざけながら彼は「ジャップに蹴られた! Ein Japs hat micht getreten!」とお尻を押さえながら騒いだ。

衝撃で返す言葉がなかった。

日本人であることに対して何か言われたのはこの時が初めてだった。これは珍しさから「中国人」と囃し立てられるのではなく、日本人であることを蔑んで言われた言葉だった。打ちのめされるような感情が渦巻いた。そのこみ上げてくる悔しさは、その後平成の日本で通りすがりの年配の男性に「女のくせにタバコ吸うな!」と言われた時にも生じた。

Civilized - 文明?民度?教養?

ドイツで珍しさからジロジロ見られることは続いたが、戦闘モードが手伝っているのか、あまり人種差別に悩まされた記憶はない。

8年生で転入したインドネシアのインターナショナルスクールはグローバルリベラリズムの先駆けで、国籍での差別なんてそんなことは許されない、国連デーを祝う学校だ。所在するインドネシア共和国のモットーも<多様性による統一Binneka Tnggal Ika>だ。

一度ドイツ語の授業で、差別発言と取れる事態があった。ドイツ語のクラスは、英語がまだおぼつかない転校生の私が唯一羽を伸ばせる場所だった。

授業中、挙手して「『文明』ってどういう意味ですか?Was bedeutet Zivilization?」と尋ねた。周りの英語話者は「Civilization」としてすでに知っている言葉だが、直近までの3年間を日本の学校で過ごした私の語彙にはない。

「彼女が知るわけないじゃん Wie soll sie denn das wissen.」と間髪入れずにティモから合いの手が入り、クラスに苦笑が漏れた。

振り返るに、そこに私の国籍や人種は関係ない「男子は野蛮」みたいな発言だったのではないかと思う。9年生や10年生に混ざったクラスの中で、最下級生だったドイツ人のティモと、8年生の私とはドイツ語でよくふざけていた。 私の英語も、civilizedな、教養があるレベルには達していない頃だった。

でも私がクラスで唯一の非白人だったことからか先生は、「ティモ」と悲しそうに彼を見つめた。「そう言うことは言うものじゃありません。So was sagt man nicht.」と咎めた。クラスはシーンとした。

授業が終わってすぐカナダ人やアメリカ人の学内優等生の上級生たちが私のそばにきて英語で謝った。「笑ってごめん。そのつもりは無かった。良くないことだった。I am sorry that I laughed. I didn't mean to and I shouldn't have. 」と、直接に口を聞いたことのない下級生の私に自主的に謝りに来た。

まだ英語よりもドイツ語を得意としていた8年生の転入生の私も、発言者のティモも、咎められる理由も謝られる理由も分かっていなかった。白人優位主義者の中には白人文明の優位論を謳う人たちもいる。ティモに潜在的にも人種差別的な意図はなかったと信じたい。

「中国が共産主義で日本は民主主義だよね?」

11年生の夏休みにドイツに再度「里帰り」した時に、まだ会う前の私は「炊飯器Reiskocher」で通っていたそうだ。

小学校からの友人コリナの新しい仲間とは初対面だった。「えっと、中国が共産主義で日本は民主主義なんだよね」とシュテファンが水を向けた。日本について知っている精一杯の知識なのか、面白い捉え方だな、と思った。まだドイツには「スシ」は浸透していない時代だった。

「炊飯器、米炊き」と呼ばれてたと知り、「ではあなた達は『芋喰らい』dann seit ihr Kartoffelfresser」と宣言すると、「喰らうは酷いからポテトパンケーキKartoffelpufferにしておこう」と相なった。ああ、「炊飯器」の命名には一応配慮があったんだなと思った。

仲間の一人のツヴェンはオランダ人に雰囲気が似ていた。私が通う高校に沢山いた生徒たちで、サッカーが上手く、群れすぎない集団だった。メガネをかけた小柄なツヴェンに「オランダ人ぽいね」と指摘するとツヴェンは「俺のことチーズ頭だってよ!Sie nennt mich ein Käskopf」と高らかに笑って大袈裟に否定した。
後日インドネシアに戻って、ツヴェンから届いた手紙には「実は祖先がオランダ人だった」とあった。隠すようなことでも打ち明ける様なことでもない気がするが、本人の事情は分からない。その頃はまだ日本でも帰化した在日コリアンの人たちが、祖先のことを公にしなかった時代だ。

丁重に「ニーハオ」

話を欧州から南アジアに移して、2008年にパキスタンの大使館に勤務してた時、地元のマーケットのお土産物屋で丁重に「ニーハオ」と声をかけられた。

日本の外交官となった私は、日本の看板を背負っている気でいるので「アッサラム アレイクム、私は日本人です」と笑顔で返していた。
「ワレイクム・アッサラーム」と返礼されたり日本語ではどういうかを聞かれたりしたに思う。中国の影響力をつぶさに感じた。

大使館の同僚達とパキスタンへの中国の進出と、一路一帯政策や袖の下による癒着と中国とパキスタン関係の蜜月に憤慨していた。

「ニーハオ」と呼びかけた店主に「日本人ですけど」と返すと、「どっちだっていいじゃないかWhat does it matter. 」と返ってきた。

この返事は高校時代のインターナショナルスクールでイギリス人同級生から聞いたことがあった。ジュリアは東アジアの同級生を指すときに誰でも彼でも「コリアンの女の子 that Korean girl」と言う。その度に「台湾ね」「日本人のね」「香港だよ」と訂正すると「What does it matter. They are all the same」と言い放ったのだ。歴史のクラスではスコットランド系のミセス バーバーが英国のことを「English」と言うアメリカ人生徒に「British!!」と毎回訂正しているというのに。

ジュリアに言われて唖然とした20年後、パキスタンで私は冷静に返答することができた。

「インド人と間違われるたらどう思う?How would you feel if people called you Indian?」
ちょっと考えて、店主はあっさりと「それはやだ。I don’t like it. I see.」と日本と中国との違いを認めた。

その件があってか、近所の青空学校でスラムの子達と接点を持ち始めたとき、私は小学生達に対して「こんにちは、私は日本人です。日本から来ました。Mae Japani hun. Mae Japanse hay」と教わったウルドゥ語で繰り返した。日本ってインドのあたり?ラワルピンディーの方?と聞く子供達に日本列島を地図で示す。すると、高学年の男子が「中国の後ろか!」と合点がいったかのように叫ぶ。「後ろじゃない、横!隣!」と指摘した。

日没に回教寺院から礼拝の呼び出しのアザーンが轟くと、子供達が私の頭に、民族服のシャルワカミースのショールを頭に被せようとする。礼拝前にアッラーへの敬意を示すものらしい。
「ムスリムじゃないからいいの」と抵抗すると「じゃあクリスチャン?」と聞くので「仏教徒」と返事する。
子供達は困惑しながら「ムスリム、クリスチャンのどっち?」と詰め寄る。そこでまた高学年男子が「わかった!Chini 中国人だ!」と声をあげる。
「だから、私は日本人だっていってるでしょ!Naheen, Mae Japani hun!」と振り出しに戻ってしまった。

学校も仕事も無い日曜日に、家の周りを市場に向って歩いていると遠くから「Japan!」と大きな声がする。

目をやると自転車に跨った男子がニカッと笑って大きく手を振ってる。「日本全部を代表するつもりでもなかったんだけど」と内心苦笑しながら、同様の笑顔で「アッサラム アレイクム!」と手を振った。


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こちらのクリエイターさんの投稿から色々なことを思い出して長くなりました。

これは208年から2011年のパキスタンでの生活について。


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