12. 伊都国は九州上陸地の「東南陸行五百里」

「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來、常所駐。」

伊都国を九州上陸地である末盧国に比定される唐津市からみて北東の糸島市に比定するのが定説である。

そして定説は、「東南陸行五百里」の方位は狂っていたとする。

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橋本増吉:「総体的な方位が東北にあるものが、魏志の記載では東南となっている」
奥野正夫:「九州に上陸してからの方位は反時計回りに45度ずれている」
原田大六:「53度から65度南にずれている」
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糸島が伊都国に比定されるのは、古くは糸島が「怡土」と呼ばれたことによる。(明治23年、怡土郡と志摩郡が合併し「糸島」となる。)

九州上陸地の末盧国が唐津に比定されるのは伊都国が糸島に比定されるからであるが、唐津から糸島は唐津湾上を直線で約20㎞であり、わざわざ末盧国で船を捨てて500里(37km)も「陸行」することはない。

そもそも伊都国は「郡使の往来するに常に駐まる所」であり、伊都国が九州北岸にあれば郡使は一大国から直航で伊都国へ向かう筈。

朝鮮半島との通交の証である楽浪土器は北部九州において糸島の三雲遺跡から最も大量に出土しており、末盧国に比定される唐津の桜馬場遺跡では調査は結構多いにも関わらず、不明。

楽浪土器は壱岐から直接糸島に搬入されているとみえ、唐津より糸島が九州の上陸地たる末盧国にふさわしい。

糸島の東南には脊振山地が「陸続」している。

末盧国から伊都国への「陸行」とは、背振山地の“陸続とした山並みを行くこと”である。

糸島の東南、直線距離で約37㎞の脊振山地南麓の丘陵に吉野ケ里がある。

吉野ケ里遺跡の建物群の一部は、郡使の常に駐まる所の「常処」かもしれない。

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