安藤邦雄

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  • 魏志倭人伝を「春秋の筆法」で読み解く

    魏志倭人伝の解釈に一石を投じる真解釈(珍解釈?)です。

最近の記事

25. 「倭国大乱」の時期

「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。」 倭の諸国が互いに新しい倭王の座を争ったいわゆる倭国大乱(『魏志』倭人伝は「倭国乱」)は、互いに争っていた諸国が卑弥呼を新たな倭王として共立することによって収束した。 その倭国大乱の時期については「住七八十年」とあるだけで、『魏志』倭人伝からはそれが何時のことなのかは分からない。 『後漢書』は『魏志』倭人伝の「倭国乱」を「倭国大乱」とし、これを「桓霊間」とする。(『後漢書』:「桓

    • 23.二郡平定と四千里征伐

      後漢の末、遼東で事実上の自立を果たしていた公孫氏は初代の度、2代の度の子の康、3代の康の弟の恭、4代の2代康の子の淵の3世にわたって遼東を支配した。天子は遼東が絶域のため海外のことは公孫氏に委ねていたが、4代・淵になって遂に東夷を隔断し、中国への朝貢ルートを通じなくした。(『魏志』東夷伝序文:「而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子爲其絶域、委以海外之事。遂隔斷東夷、不得通於諸夏。」) 建安九(204)年、公孫氏初代・度が死んで息子の康がその後を継ぐと、康は朝鮮半島南部の経営の拠

      • 24.卑弥呼の死と壹与の朝貢の時期:正始八年条を読み解く

        (正始八年条) ①其八年、太守王頎到官。 ②倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼、素不和。 ③遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃状。 ④遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢、拜假難升米、爲檄告喩之。 ⑤卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。 ⑥更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。 ⑦復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。 ⑧政等以檄告喩壹與。 ⑨壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還。 ⑩因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二

        • 22.狗古智卑狗と利歌彌多弗利

          中国語で外国人の名前をその外国人の発音通り(聞き取れた音のとおり)に表記しようとすれば、その発音に近い音韻を持つ字群(韻書)の中から文字が選択されるのであろう。 そして、その選択された文字列が中国古文のように句読点のない文章中に初めて出てきた場合、読者はどのようにしてどこからどこまでが名前だと判断するのだろうか。 「倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和」にある狗奴国王の名は「卑弥弓呼」と解されるのが一般的であるが、これを「卑弥弓呼素」までが名前だとする説もある(内藤湖

        25. 「倭国大乱」の時期

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        • 魏志倭人伝を「春秋の筆法」で読み解く
          25本

        記事

          21.山島と洲島

          『魏志』倭人伝冒頭の「倭人在帯方東南大海之中、依山嶋為国邑。<倭人は帯方東南の大海の中に在り、山島に依って国邑を為す。>」とある「山島」とは、津軽海峡を三等分するかのように存在する、島の89%を山地が占める対馬(対海国)や標高212.8mの岳の辻を擁する壱岐(一大国)のように山のある島のことである。 津軽海峡を千里~千里~千里と渡海してきた九州も、故なくして火起こる阿蘇山をはじめ多くの火山を擁する「山島」である。 風俗記事の最後の「参問倭地、絶在海中、洲島之上、或絶或連、

          21.山島と洲島

          20.奴国は倭国の極南界?

          『後漢書』:「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」 後漢の建武中元二(57)年に光武帝から賜った金印の「漢委奴国王」を<漢の委(ワ)の奴(ナ)の国の王>と読んだ三宅米吉は、中元二年条中の「倭国之極南界也」を<倭国の極南界なり>と「也」を決定をあらわす「なり」として読み、この一文は奉貢朝賀してきた「倭の奴国」の所在地についての范曄の地の文とする。 『魏志』倭人伝には奴国は「女王国より以北」と「其の余の旁国」の2国があるが、三宅説はこ

          20.奴国は倭国の極南界?

          19.倭国と日本国

          『旧唐書』は倭国伝と日本国伝を、それぞれ別に立てている。 その倭国伝は「倭国者、古倭奴国也<倭国は、古の倭奴(イト)国なり>」とあり、日本国伝は「日本国者、倭国之別種也<日本国は、倭国の別種なり>」とある。 『魏志』倭人伝に「女王国東、渡海千余里、復有国、皆倭種。<女王国の東、海を渡ること千余里にして、復た国あり、皆、倭種。>」とある。 「倭種」の皆(国々)とは、倭国とは別種の国である。 この「倭種」の国が、『旧唐書』がいう「日本国」ではなかろうか。 『旧

          19.倭国と日本国

          18.仏教伝来と文字伝来

          『隋書』に「無文字、唯刻木結繩。敬仏法、於百済求得仏経、始有文字。<文字はなく、ただ木を刻み縄を結ぶ。仏法を敬い、百済において仏経を求得し、始めて文字あり。>」とあることから、我が国には仏経が伝来する以前には文字がなかったとされる。 しかし、『隋書』の記事は記紀の文字伝来記事と対応しない。 〇仏教伝来 我が国への仏教伝来については、538年と552年の二説ある。 538年説は、『上宮聖德法王帝説』に「志癸嶋天皇(欽明天皇)御世戊午年十月十二日、百済国聖明王、始

          18.仏教伝来と文字伝来

          17.上古音と中古音

          中国語の漢字音は漢民族の音(上古音という)の上に、異民族である北方民族の鮮卑・匈奴の音が載り、形声文字の細かな音の違いが変化して、ある文字は上古音とは違う音になる。このような形で生まれた北方系の発音を中古音という。 魏・蜀・呉が覇権を争うことになる三国時代の前夜、プレ三国時代ともいうべき漢末の動乱時、中国華北に鮮卑・匈奴などの北方民族が流入しはじめ漢民族は激減した。 184年、黄巾の乱が発生し後漢は崩壊に向かい、これを契機に曹操、劉備、孫堅が各地で挙兵し三国志の時代を迎え

          17.上古音と中古音

          16.「倭」と「奴」の字音

          〇「倭」の字音 辞書には「倭」の字音は呉音読みでも漢音読みでも「ワ」と「イ」の両読みとある。 日本語の漢字音に呉音と漢音があるのは漢字の伝来が数次にわたっていたからである。 中国語の漢字音は上古音でも中古音でも一字一音節が原則であり、一つの漢字が完全に違う発音を複数もつということはない。(例外的に同じ文字でも動詞か名詞かで発音が違うことはある。銀行の行〈北京語hang,広東語hong〉と「行く、行う」のxing。) わが国には上古音である呉音が先に伝来し、漢音

          16.「倭」と「奴」の字音

          15.「漢委奴国王」の金印

          天明四(1784)年に志賀島から出土した国宝の蛇鈕の金印は、『後漢書』倭伝に「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬。」とある、中元二(57)年に“倭奴国”が後漢初代皇帝の光武帝劉秀から賜ったものである。 金印には一部に贋作説もあったが、1981年、中国江蘇省の甘泉2号墳で出土した中元三(58)年に光武帝の子劉荊に下賜された「廣陵王璽」の亀鈕の金印の円い鏨(たがね)の文様や字体が「漢委奴国王」の金印と似通っていることから、同じ工房で制作され

          15.「漢委奴国王」の金印

          14. 一大率と刺史

          「自女王国以北、特置一大率検察、諸国畏憚之、常治伊都國。於国中有如刺史。王遣使詣京都・帯方郡・諸韓国、及郡使倭国、皆臨津。捜露伝送文書賜遺之物、詣女王不得差錯。」 <女王国より以北に、特に一大率を置き、検察せしむ。諸国は之を畏れ憚る。常は伊都国に治す。国中に於ける刺史の如くあり。王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣り、郡使の倭国へ及ぶに、皆、臨津す。伝送の文書と賜遺の物を搜露し、女王に詣るに差錯するを得ず。> 〇特置と常治 伊都国には中国の「刺史」のような「一大率」とい

          14. 一大率と刺史

          13.伊都国王と倭奴国王

          「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來、常所駐。」 ○「世有王」 陳舜臣・陳謙臣著の「日本語と中国語」に、 『中国語は活用しませんし、“てにをは”も時相(テンス)もほとんどありません。 ―我念書。 右の中国文は<私は本を読む>と日本語に訳せます。念は読むことです。 しかし、これを、<私は本を読んだ>と、過去に訳してもまちがいとはいえません。 <私は(これから)本を読もう>と、未来に解してもかまわない

          13.伊都国王と倭奴国王

          12. 伊都国は「東南陸行五百里」

          「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來、常所駐。」 伊都国を末盧国に比定される唐津市からみて北東の糸島市に比定するのが定説である。 そして定説は、「東南」の方位は狂っていたとする。 *** 橋本増吉:「総体的な方位が東北にあるものが、魏志の記載では東南となっている」 奥野正夫:「九州に上陸してからの方位は反時計回りに45度ずれている」 原田大六:「53度から65度南にずれている」 *** 糸島が伊都国

          12. 伊都国は「東南陸行五百里」

          11.一大国と瀚海

          「又、南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国。」 <また、南に一海を渡ること千余里にして、名を瀚海という、一大国に至る。> 陳寿は渡海三海峡のうち、対海国(対馬)と一大国(壱岐)との間の海峡(対馬海峡東水道)だけを「瀚海」と名付けている。 『史記』匈奴伝の「漢驃騎将軍之出代二千余里、与左賢王接戦、漢兵得胡首虜凡七万余級、左賢王将皆遁走。驃騎封於狼居胥山、禅姑衍、臨翰海而還。」に注をした、唐の張守節になる『史記正義』に「按、翰海自一大海名、羣鳥解羽、伏乳於此、因名也。」とあ

          11.一大国と瀚海

          10.楽浪郡と帯方郡

          『前漢書』地理志:「樂浪海中有倭人、分爲百餘國。」 『魏志』倭人伝:「倭人在帶方東南大海之中、依山嶋爲國邑。」 〇楽浪郡 楽浪郡は漢の武帝が元封三(BC108)年、遼東から朝鮮半島北部を支配していた衛氏朝鮮を滅ぼし、その地に郡県制をしいて玄莵郡、臨屯郡、真番郡とともに置かれた。(『前漢書』武帝紀:「(元封三年)夏、朝鮮斬其王右渠降、以其地為樂浪・臨屯・玄菟・真番郡。」) 『前漢書』地理志:《細字注》 「樂浪郡《武帝元封三年開。莽曰樂鮮。屬幽州》。戸六萬二千八百一十

          10.楽浪郡と帯方郡