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魏志倭人伝を「春秋の筆法」で読み解く

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魏志倭人伝の解釈に一石を投じる真解釈(珍解釈?)です。
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1.春秋の筆法

清の歴史学者、章学誠の著わした史学の学問的意義を強調する『文史通義』に「歴史の大原は『春秋』基づく」と評されるように、歴代中国の歴史書は孔子(BC552-479)が著わした魯国の歴史書『春秋』を継ぐことだとされる。 中国24正史の第一である『史記』を編纂した司馬遷は、その列伝の評にあたる「太子公自序」の中で執筆の目的を父・司馬談の遺志である「春秋を継ぐ」ことだとしている。 『史記』列傳太史公自序: 「太史公曰:先人有言、『自周公卒五百歲而有孔子、孔子卒後至於今五百歲。有能

2.魏志倭人伝

魏志倭人伝とは、3世紀の古代中国が魏(220-265)、蜀(221-263)、呉(222-280)の三国に鼎立し覇権を争った歴史を、三国を統一した西晋(265-316)の史官・陳寿(233-297)の撰した歴史書、魏書30巻・蜀書15巻・呉書20巻の全65巻からなる『三国志』の魏書巻三十・烏丸鮮卑東夷伝のうちの古代日本に関する倭人の条の通称。  三国志「魏書」が「魏志」と呼ばれるのは、他にも晋の泰始元年(265)には成立していたといわれる晋の王沈(?-266)の魏書や、後の

3.隋書の「壹・臺」論争

『隋書』は倭国を「俀国」と表記し、その都を「邪靡堆」とする特異な書である。   『隋書』の撰者魏徴(580-643)は、この「邪靡堆」に対し「則魏志所謂邪馬臺者也」と注釈している。   この注釈は「則ち魏志の謂う所の邪馬臺なる者なり」と読まれ、魏徴が手にしている『魏志』には「邪馬臺」とあったとされる。   『魏志』にみられる「邪馬壹」は、本来は『後漢書』と同じく「邪馬臺」とあったとする定説には、この魏徴の「証言」がなによりの根拠となっている。   *** 〇内藤湖南「卑弥呼考

4.邪靡堆と邪摩惟

『隋書』の成立から40年後の儀鳳元(676)年、唐高宗と則天武后の次男、章懐太子・李賢(654-684)は『後漢書』の「邪馬臺国」に「案今名邪摩惟音之訛也」と注をしている。   通説は、李賢注の「邪摩惟」は『隋書』のいう「邪靡堆」の誤りとし、さらに通説は『隋書』の「靡」は「摩」の誤りとしたうえで、この李賢注を「案ずるに、今(唐代)の名の邪摩堆は、音の訛りなり」と読んでいる。   そして通説は、隋唐の時代に倭都の表記が「邪摩堆」となったのは、当時の倭国使の倭都を言う発音にそれま

5.何故、「倭人」なのか

陳寿は東夷伝のうち倭国だけ「人」一文字を加えて「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。<倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に依って国邑をなす。>」と、書き出している。(『魏略』は「倭在帶方東南大海中、依山島爲國。」とする。)   (東夷諸国伝の書き出し) 〇夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗、東與挹婁、西與鮮卑接、北有弱水、方可二千里。 〇高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮・濊貊、東與沃沮、北與夫餘接、都於丸都之下、方可二千里。 〇東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。

6.水行と陸行

「従郡至倭、循海岸水行、歴韓国乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対海国。」 <郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴るに乍(たちま)ち南し乍ち東して七千余里にして其(大海)の北岸の狗邪韓国に到る。始めて一海を渡ること千余里にして対海国に至る。>  帯方郡から倭に至る行程の第一歩、「循海岸水行」の「水行」が朝鮮半島西海岸に沿っての“船行”であるということに疑いを持つ人はいない。 しかし、この帯方郡からの「水行」が“船行”であるならば、“船行”

7.其の北岸

「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。舊、百餘國、漢時有朝見者、今、使譯所通三十國。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国乍南乍東、到其北岸狗邪韓国。」 <倭人は帯方の東南(の方)大海の中にあり、山島に依って国邑をなす。・・・、郡より至倭に至る・・・、其の北岸の狗邪韓国に到る。>   朝鮮半島の南岸に位置する狗邪韓国を指していう「其北岸」の「其の」は、この文頭の「郡より倭に至る」の「倭」を指示するとし、“倭の北岸”と読むのが通説である。   しかし、「岸」とは水涯(みずべり)のこと

8.陳寿の里単位:「計其道里、当在会稽『東治』之東」

○「自郡至女王国、万二千余里」 帯方郡から女王国(邪馬壹国)までの「一万二千里」とは、 ①帯方郡から東南の大海の北岸の狗邪韓国まで7000里。 ②狗邪韓国から南に渡海し対海国まで1000里、対海国から一大国まで1000里、一大国から末盧国まで1000里の『渡海3000里』。 ③九州に上陸し末盧国から東南に陸行して伊都国まで500里。 ④伊都国から東南して奴国まで100里。 ⑤奴国から東行して不弥国まで100里。ここまで10700里。 ⑥不弥国から南へ「水行20日

9.卑弥呼の墓の「径百余歩」

「大作冢、径百余歩。<大いに冢(土を高く盛った墳墓)を作る、径(円形のさしわたし)、百余歩。>」   ○歩の単位   長さの単位の諸度量は、人体の部位を基礎としている。(『説文解字』:「周制、寸・尺・咫・尋・常・仞、諸度量、皆以人之体為法」)   同じ長さの単位である「歩」は、歩測に用いた人の歩く歩幅を基礎としているという。 そして、その歩幅の長さは秦の始皇帝が「六尺為歩」と定めた1歩=6尺とされる。   講談社漢和辞典の度量衡換算表によると秦漢の時代の1尺は22.5㎝なので

10.楽浪郡と帯方郡

『前漢書』地理志:「樂浪海中有倭人、分爲百餘國。」 『魏志』倭人伝:「倭人在帶方東南大海之中、依山嶋爲國邑。」   〇楽浪郡   楽浪郡は漢の武帝が元封三(BC108)年、遼東から朝鮮半島北部を支配していた衛氏朝鮮を滅ぼし、その地に郡県制をしいて玄莵郡、臨屯郡、真番郡とともに置かれた。(『前漢書』武帝紀:「(元封三年)夏、朝鮮斬其王右渠降、以其地為樂浪・臨屯・玄菟・真番郡。」)   『前漢書』地理志:《細字注》 「樂浪郡《武帝元封三年開。莽曰樂鮮。屬幽州》。戸六萬二千八百一十

11.一大国と瀚海

「又、南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国。」 <また、南に一海を渡ること千余里にして、名を瀚海という、一大国に至る。>   陳寿は渡海三海峡のうち、対海国(対馬)と一大国(壱岐)との間の海峡(対馬海峡東水道)だけを「瀚海」と名付けている。   『史記』匈奴伝の「漢驃騎将軍之出代二千余里、与左賢王接戦、漢兵得胡首虜凡七万余級、左賢王将皆遁走。驃騎封於狼居胥山、禅姑衍、臨翰海而還。」に注をした、唐の張守節になる『史記正義』に「按、翰海自一大海名、羣鳥解羽、伏乳於此、因名也。」とあ

12. 伊都国は九州上陸地の「東南陸行五百里」

「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來、常所駐。」 伊都国を九州上陸地である末盧国に比定される唐津市からみて北東の糸島市に比定するのが定説である。 そして定説は、「東南陸行五百里」の方位は狂っていたとする。 *** 橋本増吉:「総体的な方位が東北にあるものが、魏志の記載では東南となっている」 奥野正夫:「九州に上陸してからの方位は反時計回りに45度ずれている」 原田大六:「53度から65度南にずれている」 ***

13.伊都国王と倭奴国王

「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來、常所駐。」  ○「世有王」  陳舜臣・陳謙臣著の「日本語と中国語」に、  『中国語は活用しませんし、“てにをは”も時相(テンス)もほとんどありません。 ―我念書。 右の中国文は<私は本を読む>と日本語に訳せます。念は読むことです。 しかし、これを、<私は本を読んだ>と、過去に訳してもまちがいとはいえません。 <私は(これから)本を読もう>と、未来に解してもかまわない

14. 一大率と刺史

「自女王国以北、特置一大率検察、諸国畏憚之、常治伊都國。於国中有如刺史。王遣使詣京都・帯方郡・諸韓国、及郡使倭国、皆臨津。捜露伝送文書賜遺之物、詣女王不得差錯。」  <女王国より以北に、特に一大率を置き、検察せしむ。諸国は之を畏れ憚る。常は伊都国に治す。国中に於ける刺史の如くあり。王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣り、郡使の倭国へ及ぶに、皆、臨津す。伝送の文書と賜遺の物を搜露し、女王に詣るに差錯するを得ず。> 〇特置と常治 伊都国には中国の「刺史」のような「一大率」とい