で、ポリヴェーガル理論ってなんだっけ?
2024年12月1日(日)
福岡で、日本のポリヴェーガル理論の理解者であり実践者である津田真人さんと、鍼灸師で和合癒学を提唱する鍋山孝治さんと
なるものを開催した。
スタートは、、、2024年1月に開催された津田さんのポリヴェーガル理論の講義に私が受講生として参加したことから。懇親会で席くじ引きで2回とも津田さんとお隣同士になり、津田さんの理解するポリヴェーガル理論について質問し続けていたら、それを「面白過ぎる!絶対対談形式でセミナーしよう」と言い出した鍋山ちゃんの勢いに、津田さんも私も「OK、じゃ日程は?12月1日しか3人の空いている日ないね、、、」ってなり、開催された。
その勢いかつ、おタッキーな集まりに、50名定員がすぐに埋まり、ふたを開けてみればキャンセル待ちも出る60名のセミナーとなった。(感謝感謝)
スティーブン・ポージェス博士が様々な智慧を集約した「ポリヴェーガル理論」日本においては、ポリヴェーガル理論は「安心安全」の話、、、みたいに一般的に広まってしまった。
人が健康でいるため、トラウマからの解放のためにも、「その人の安心安全を理解する」みたいな。その理解が浅いと「安心安全=嫌なことを避ける」「安心安全=違和感のない状態」「安心安全=同質な環境・好きを基準に」ととらえてしまうことになる。
1月の会話の中で、津田さんが「大事なのは安心安全ではなく、安心信頼なんだよ」って言ったことは非常に大きなキーワードで、その「安心安全」と「安心信頼」の違いをポリヴェーガル的に解釈し理解できることで、この理論の実践における使い方が大きく変わると個人的には感じた。
先日も、ある人と話をしていて、「自己の価値観が低い」「自分は変わっていて、他者に理解されない」「自分の存在を肯定することが難しいことがある」みたいな会話になった。
話を聞いてみると、自分を守るため、自分の中の安心安全、自分の軸を失わないために、「自分が嫌い」「自分とは違う」ものは遠ざけ、「自分と同じ」「自分が好き」だけで自分を固め続けた結果、、、、なのだな、と感じた会話だった。「自分と同じもの・近しいものであれば、自分の軸はぶれることない。でも自分とは異なるもの、自分が嫌だと思うものだとそれによって自分の軸が大きくぶれることによって、自分というものがわからなくなるから、、、」と。
私にはない考え方だったので、「なるほど、、、」と思いつつ、上に書いた「安心安全」と「安心信頼」の違いがこれなのだな、、、と思った。
「なぜ人は自己を否定するのか」
「なぜ人は健康を害するのか」
「なぜ人は自分の生きる道を見失うのか」
「なぜ人は成長を止めるのか」
「なぜ人は自分はここまでと限界をひくのか」
逆を言えば
「どうすれば人は自己を肯定できるのか」
「どうすれば人は健康でいられるのか」
「どうすれば人は自分の生きる道を見つけられるのか」
「どうすれば人は成長しつづけるのか」
「どうすれば人は自分に無限の可能性を感じるのか」
ということなのかもしれない。
物事を見る上では、常に表裏一体でその二つは並走している。
津田さんは1月の講義の中でポージェスが言っていることを、
安心安全は「同質性」
安心信頼は「異質性」
と表現をしていた。(私の物事の理解、要約あり)
同質性、つまりは同じことに共感し、同じことを好むという事。
「私も好き~、あなたも!」「私も同じ意見、あなたもでしょ!」「一緒だから安心だね!」みたいな感じですかね。
これは自分の意見と相違することがないので、安心であり安全でもあるとはいえる。が、自分と異なる意見と接することも、異なる意見を考える機会も減るので、自己の成長は少なく、かつ、もし自分と異なる意見の人と出会ったときに、その人はその異質さに不安や恐怖を覚えたり、拒否反応を示したりするかもしれない。ひいては、意見の違う誰かを否定したり、または誰かと違う意見を持つ自分を否定することにもつながるかもしれない。
一方で、異質性。
異なる性質を持つ者同士が、お互いの違いを受け入れて存在すること。
「異なる意見を持つあなたを、私は受け入れます」
「異なる要素があるものも世の中には存在することを認めます」
ということ。
人には様々な視点があり、その視点はその人の置かれる環境によって生まれていることもあるし、そしてその違いを認めることが、「安心でかつ信頼」というものにつながる。「違ってもいい、なぜなら私はあなたという存在そのものを受け入れているから」「意見は違ったとしても、人としてのあなたを認めていますよ」きっとそういうジェスチャーであるのだと思う。
朝の津田さんと私の40分ずつの講義の後、私が対談相手となり、津田さんに様々な話を聞いた。
なめ猫のことや(感情を外へ発散をしていた時代)
引きこもり(感情の外への発散ができず、内に入る時代)
現代人は交感神経の使い方を忘れてしまった、、、とか
ポージェスが、昔は階層を下から、背側迷走神経複合体、交感神経複合体、腹側迷走神経複合体としていたけど、最近は、交感神経を頂点とした三角形で、底辺の2点に腹側迷走神経複合体と背側迷走神経複合体を横並びにして説明をしている、その解釈とか。
今回は、脳神経系の作用に関する細かい講義は入れなかったけど、鍋山さんを含め私たちが伝えたかった、「異質性を受け入れる大切さ」と言ったことも含めて、今回の参加した皆さんと一緒に考えることができたかな、、、と思っている。
信頼を作り出すには、異質性を認めることが大事。
違うものも存在して、その違うものを受け入れること。
「一緒だから安心である」という条件付けの状態は、その条件がなくなったとき崩れていく。
「一緒でなくても安心である」という条件でもいられることが、安心でありかつその状態こそが、互いの信頼のもと現れてくる状態と言えるのではないだろうか。
「違いを認める」そして「認めて受け入れる」
この話を書いていた途中で数名と振り返りミーティングをする中で、「人は起こっている現象を、「人のせい」にするのだなぁ」と思うことがあった。
「その人が悪い」
「その人のせい」
その人がそれをせざるを得なかった環境があったのかもしれない、、、という考えがぶっ飛んでしまう。社会、特に組織にいると、「自分」という存在以上に、「組織・グループ」という存在の在り方が人の行動に影響を与えることも多いと思う。(それは家族という単位も同じ)
だからこそ自分がどんな「組織・グループ」に属していたいのか、は大事だと思う。
「自分らしくいられる場所」とはどういう場所なのか。
「組織として大事にしているもの」とはどういうものなのか。
その上で、個々の違いが存在することで、同質性と異質性の共存在があることで、その組織は発展していくのではないかなと思う。
それは「私」という組織(システム)にとっても同じことではないか、、、と、3週間前の津田さんとの対話を振り返りながら、そのあとの様々な出来事から感じたこと。
チャレンジは、異質性との出会いを自らに課していること
楽でいつも通りは、同質性を強化していること。
とってもシンプルだけど、意外と忘れられている、または誤解されている部分な気がするなぁと。
今の自分から飛び出そう!
その先には想像もできない可能性が広がっている。
受講者からの評価が超絶良すぎた今回の企画。
特に対談の評価がとてもよくて、MC役だった私はちょっとホッとしております。またやってほしい!!のリクエストもたくさんいただいたので、どうやら第二弾(2025年)、そしてなんなら第三弾(2026年)の日程も企画されているとかいないとか、、、。
楽しい事やって、一緒に考え歩んでいきましょう~