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私がわたしである理由 4

[ 前回の話 ]

第三章 帰宅はしたものの


取り敢えず、潤治は正雄と別れた大崎広小路から目黒の自宅を目指してみることにした…

昭和20年の東京は潤治の知る東京とは全く別の街だった。当たり前の話だが、ビルは全て古く低い。掲げられたディスプレイも猥雑な派手さは一切なくほぼ全てが漢字か仮名ばかりだ。大崎広小路に面した山手通りの路面には路面電車のレールが敷かれ、空は一面架線や電線で覆い尽くされている。終戦間際だからかも知れないが通りを走る自動車やトラックは疎らで、多くの自転車やリヤカーがあちらこちらに混じっている。

路面電車のターミナル駅でもある広小路付近は流石に人通りが多いが、ほとんどの通行人は女性はもんぺ姿、男性は圧倒的に国民服が多い。時折和装の訪問着を着た女性や、ソフト帽にダークスーツの勤め人の姿も見えるが、潤治の様なカジュアルなジャケット姿は全く見受けられない。

正雄から忠告された様に、時節柄あまり目立つのは危険を招くかも知れない。まして潤治はこの時代に身元を証明できるものは何も持っていない。ただの不審者でしかないのだ。
鞄の中や持ち物を調べられれば、パソコンやスマートフォン、イヤホンにUSBメモリ、英文の資料、平成の時代に書き換えた運転免許証やクレジットカードに現金、怪しいものが続々と出現してしまうこととなる。
なるべく大通りを避け、桐谷からかむろ坂、目黒不動尊の前を抜け競馬場跡に沿って自宅のある目黒通りへと抜ける裏道を使った。幸い道の構造自体は大きく変わってはおらず、迷うことはなかった。

裏道には人通りも少なく、周囲に人の姿のない状況も少なからずあったが、この状況から抜け出せる兆候は何も訪れなかった…


時刻を見るともうそろそろ午後の2時だ。さすがに空腹を感じていた潤治は自宅周囲で最も古くからある蕎麦屋の場所に向かってみた。潤治の時代では鉄筋三階建の小さなビルだったが、『更科』の名前そのままに古い木造の店は既にそこにあった。車中で正雄たちから外食券制度というものを聞いていた。米飯でなければ外食券がなくても外食はできることも聞いていたので、試しに店内に入ってみた。暖簾のれんを潜り扉を開く…

「いらっしゃいっ!」今はもう既に代替わりしてしまったが、潤治が子供の頃には元気で店に立っていた以前の女将が若い姿で、声を掛けて来た。

「あの…外食券ないんですけど、食べられますか?」
「ご飯はないですよ。蕎麦は40銭、うどんなら50銭、それで良ければ。高くて申し訳ないけどねえ。なんせ材料が何にも手に入んないんでね」
「じゃ、あったかいお蕎麦で…」
「具はあるもんでしか出来ないけど、いいよね」
「はい、お願いします」
「お客さん、この辺じゃあんまり見ない顔だねえ、いや、何だか見た様な…気もするけど…」
「あ、向かいの四丁目の川出の親戚のものです」
「ああ、川出さんの…あそうか、川出さんの坊ちゃん…えーと、せいちゃん。そうだ、誠ちゃんに似てるんだわよ。あーそうなの、川出さんのねえ…なんかすいませんねえ。何にもないんですよ、ここ最近は特にねえ。あんまり美味しくないかも知れないけど、勘弁してね」
「食べさせて頂けるだけで助かります」
「じゃ、作って来ますね。ちょっと待っててくださいね」

潤治は何故自分が自宅に戻ろうとしているのか、良く分からなかった。自分の家族はここにはいないことは分かっている。10年前に死んだ父親に会えたとしても、彼はまだ中学生だ。母親とは出会ってすらいない。
父の実家の川出家は明治以来神戸の華族。父が幼い頃家長の祖父が病死し、目黒の家は父誠治が東京の学校に就学する為に神戸の本家が父の名義で購入した建売住宅であったと聞いている。父親の母で潤治の祖母の綾子は、潤治が子供の頃に亡くなっているのであまり多くの記憶は残っていないが、孫に対しても決して笑顔を見せない近寄り難い人物だった様に覚えている。
父の少年期の家…何か当てがある訳ではないが、川出家の縁戚関係は熟知しているので遠縁と言う触れ込みなら、何とか潜り込める可能性はあるかも知れない。何しろこの時代には潤治が身を置くべき身寄りは他に一切存在しないのだ。

確かに旨い蕎麦ではなかった…かろうじてネギと薄い練り物と青物が置かれていたが、味も薄く麺生地も何かで増量しているのだろうか、ぼそぼそと弾力に乏しかった。ただ、暖かい食事で腹が満たされる満足感は充分に味わうことが出来た。汁を飲み干すと、潤治は払い戻しで得た現金で支払いを済ませ、再び礼を言って店を出た。


目黒の家は潤治が子供の頃に暮らしていた懐かしい昔のままの姿をそこに残していた。
記憶にあった区道脇の駐車場はまだ無く、玄関前が広々としている。門は開かれ、石造りの門柱には『川出誠治』と潤治の記憶のままの表札が掲げられていた。かつては未成年であっても表札には家長の名前が記されるのだ。今日は平日なので多分誠治はまだ学校から戻っていないかも知れない。

『門から玄関までの敷石は大人の歩幅なら丁度良かったのか…』と、些細な発見で潤治は顔をほころばせる。しかし、いざ玄関の前に立つと流石に重い緊張がのし掛かって来た。潤治は大きく深呼吸をし、意を決して脇の呼び鈴を鳴らした。

奥から人が急ぎ足で玄関に近づく気配がすると、女性の声で「はい、どちら様ですか?」と、内側から声を掛けられる。どうやら玄関の引き戸には鍵は掛けられていない様なので、ガラガラと曇りガラスの戸を開けると、上がり口に割烹着を着た和装の小柄で太めの女性が立っていた。その女性は記憶や写真で見る祖母綾子とは全くの別人だった。

「突然申し訳ございません。あの、私、川出潤治と申します」と潤治は一礼する。「あ、川出さんと言うと、神戸筋のご親戚の方でしょうか?」
「あ、はい。金造さんの縁戚に当たる潤治と申します。あの、綾子様はご在宅でいらっしゃいますでしょうか?」潤治はなるべく如才のない人物の振りを努める。脇の下に汗をかき始めていた。

「生憎奥様はご実家の方で不幸がありまして、明日まで家を空けておりますけど…」
「あ、大森さんのお宅にご不幸があったんですか?」祖母の旧姓が大森であることは知っていた。と言うか、咄嗟に思い出したのだ。
「はい、大森の叔父上様が急にお倒れになって…一昨日のことなんですが」
「ああ、それはそれは…お取り込み中に突然押し掛けまして申し訳ありません」潤治は再び頭を下げる。

「あのお、少々お待ちください」彼女は上がり口の奥、取次部屋の左脇にある大振りのドアを少し開く…ドアの向こうは確か洋間だった筈だ。そこから聴き覚えのあるベニーグッドマンの音楽が漏れ聞こえてきた。
「あの、誠治さん?…」女性が部屋の中に声を掛けると、ドタバタと慌てた物音が聞こえ、音楽が中断された。続いて押し殺した様な男性の声が聞こえる。
「しずさんっ、ドアを開けるときはノックしてよ。今ジャズ聴いてるんだから、誰かに聞かれたらどうすんだよっ」どうやら潤治の父誠治がいる様だ。
「あのお、川出潤治さんて仰言おっしゃる神戸筋のご親戚の方が奥様を訪ねてみえてますけど…金造様にお近い方の様ですよ」
「潤治さん?誰だろ?…今行きます」

多分目にされてはまずいものを片付けているのだろう。少し時間を置いて誠治が洋間から上がり口に出向いてきた。中学3年生、歳は15になったばかりの筈だが、その容姿は少年と言うには大人びていて、表情に少し幼さの残る青年といった雰囲気だ。

「お待たせしてすみません。長男の誠治です。どうぞお上がりになってください」
「初めまして。川出潤治と申します。申し訳ありません。お取り込み中のご様子で」
「まあ、どうぞどうぞ、生憎母は不在ですが…」まだ若いが、確かに懐かしい父親の声だった。

彼は快く潤治を洋間に通してくれた。そこには電気蓄音機と扉付きのSPレコード棚。その脇に隠す様にギターケースが置かれている。潤治と誠治は応接テーブルを挟んで改めて対面した。

「で、母へのご用向きは何でしょう?僕がお伺いして差し支えなければ…」
この時代の中学生とは、これ程しっかりしているのか…それとも早くに父を亡くし、幼い頃から家長としての役目を担わされているせいなのか…まだ未成年の父親を頼ることは出来ないと思い込んでいた潤治は考えを少し変更した。

「実は私は文筆業を生業としているんですが、東京の現状の風俗を取材したいと考えていまして、ただ、東京には伝手がないもんで、それで金造さんに相談したところ、こちらを訪ねてみてはどうかと…時勢が不安定なもので、たまたま取れた東京行きの急行切符があったので、急ぎ来るだけ来てしまったんですが…」

誠治は相槌を打ちながら、潤治の話に耳を傾けていたが、家政婦のしずがお茶を運んで来ると席を立ち、直ぐに戻る旨を潤治に伝え、一旦部屋を出ていった。5分程の間だっただろうか、誠治は不安げな表情を隠す様に敢えて毅然とした態度で部屋に戻ると潤治の前に座り直した。

「潤治さん、と仰言いましたが、あなたは正直なところどなたなんですか?もしかすると、官憲筋の方ではないんですか?あなたが何を調べようとされているのか分かりません。そして、あなたがご存知かどうか知りませんが、私の母は海軍大森中将の娘で、川出家は軍需に貢献する神戸川出造船所を有する男爵家です。軍部とも密接な関係にあります。事と次第によっては非礼の旨を伝える事となりますが、何か御言い分がありますか?今神戸の金造叔父と電話で話をしました。川出潤治という人物は親族には思い当たらないと言う事です。あなた、随分この部屋をじろじろ見回していましたけど、もしも僕の教練拒否や敵性音楽への愛好を咎めるんでしたら、僕だけを検挙してください。家族とは全く何の関係もありませんので…」誠治はここまで一気に話を進めると、遂に眼にうっすら涙を浮かべ始めた。誤解ではあったが、流石に15歳の少年には感情を抑えられない窮地を感じたのだろう。

潤治は慌ててそれを否定した。
「す、すいませんっ。い、いやっ、そう言うことではないんです。僕はその、官憲とやらとは何の関係もありません。確かに嘘はつきました。申し訳ないっ。でも本当に私の名前は川出潤治なんです。ちょ、ちょっと待ってください…」潤治はそう言うと急いで名刺入れと財布を出し、名刺と運転免許証と健康保険証を取り出し、それらを誠治の目の前に並べた。
「これを見てください…」

誠治はいぶかしげに一枚一枚を手に取って確認し始める…時折、理解できない文字を首を傾げながら拾い読む。
「オフィス?…ライター?…目黒区中町?…こんな長い電話番号…昭和46年生まれ?…平成?…え?…どういう、どういうことですか?あなたは、何なんですか?」

潤治は全てを話すしかないと覚悟を決めたが、問題はどこからどう話すかだ…
「だから、僕は川出潤治で今から26年後に生まれるあなたの息子なんです。最初から正直に話しても信じて貰えないと思って…」
「でも、こんな紙切れでそんな突拍子も無い話、信じられませんよ…」
「僕だって信じられませんでした。この世界に飛び込むまでは…そうだ、ちょっとこれを見てください」そう言って潤治は鞄の中からスマートフォンを取り出し、電源を入れた。
「何ですか?それは…」
「これは、スマートフォンといって、僕の時代の電話機です。携帯電話とも言いますが、えー、簡単に言うと…複雑な電子計算装置で機能する通信機です。もちろん電話機能はこの時代では使えないんですけど…」

潤治がテーブルの上でディスプレイ画面を見える様に操作し始めると、誠治は身を乗り出して、食い入る様に見つめる。
「これには映像も保存出来るし、カメラの機能も持っています。ここに僕の子供時代の写真がファイル…いや、保存してあります。ちょ、ちょっと見てくれますか?…」

潤治は写真ファイルを開いて大量の写真を指でスクロールしながら、以前自分の古いアルバムからスキャンした写真をフル画面で映し出した。その画像は潤治が子供の頃まさにこの家のこの洋室で父親と一緒に写っている画像だった。

「分かります?この部屋…ほら、そこのステンドグラスもそのままだし、出窓はステンレスのサッシに変わっていますけど、同じでしょ?で、こっちが子供の頃の僕で、隣は父親になったあなた…」
「ちょ、ちょっと貸して貰ってもいいですか?」
誠治は恐る恐るスマートフォンを手に取り、そこに映し出された子供の潤治の顔と目の前の潤治の顔を見比べ、次に席を立って壁に掛けられた鏡に近づき、年をとった自分の顔と今の自分の顔を何度も見比べた。

「本当だ。これ…俺だ…。黒子ほくろの位置も眉毛の上の傷跡もおんなじだ…」

誠治は応接椅子に戻ると、しばらく呆然とスマートフォンを眺めていたが、やがて突然ある大事なことに気が付いた様だった。
「じゃあ、あの…僕は…戦争に行って死ぬことはないんですか?僕は年を取るまで生きられるっていうことなんですか?本当に、本当にそうなんですか?」

15歳の誠治が心の中で抱えている最も大きな悩みへの答えを、この画像が示していることに気が付いたのだ。
「そうです。戦争に行くことも死ぬこともないから大丈夫です。じゃなきゃ僕も生まれないから。戦争は今年の夏には終わりますから、もう少しの辛抱です」
「本当ですか?じゃあ、やっぱり…」
誠治は声を潜める…「日本は負けるんですか?…」
「はい。残念ですが…無条件降服です…」

潤治は今から終戦までの半年間にこの日本で何が起きるのか、さらにその後のGHQ占領時代、そして朝鮮戦争による軍需景気をきっかけに経済成長を遂げるまでの時代の流れを概略で説明した。潤治の仕事はライターである。クライアントはテレビ局や広告代理店、企業、出版社、音楽出版社など、多岐に渡って幅広く仕事をこなしてきた。文章力も大切だが、情報収集はその都度大事な作業となる。経済・科学・文化・医療・技術・歴史・地理…など、それぞれの仕事に応じてこつこつと蓄え続けた知識があった。

誠治は強く話に惹き込まれている様子だった。日本の民間人に対する連合軍の攻撃はどんなものだったのか、敗戦後、天皇制はどうなるのか、何故日本は敗戦後も独立国として存続することが出来るのか、軍制国家がどの様に民主国家に変わることが出来るのか、人々はそれをどの様に受け入れたのか、敗戦によって華族や財閥はどうなるのか、誠治が投げかけた疑問はどれも具体的で現実を良く捉えている。15歳の少年のものとはとても思えない…
話を聴くと元々誠治は軍部主導の体制には批判的で反戦主義、欧米の様な民主的な社会に日本は成長するべきだと考えている様だった。今日も学校で行われる軍事教練を嫌い、仮病で学校を休んでいるということだ。

「僕…あなたを信じます…というか…信じざるを得ません。あなたは僕の未来の息子なんですよね?」
「そうです…」
「あの…伺ってもいいですか?」誠治は目を輝かせていた。
「何ですか?」
「あの…僕は、どんな人生を送るんですか?どんな人と結婚して、どんな仕事をして…僕はいつ死ぬんですか?どんな風に死ぬんですか?それとも80幾つでまだ長生きしてるとか…」

潤治は目を伏せ、黙って暫く考え…やがて口を開いた。
「…ええと…誠治さん、それは話したくありません。申し訳ないけど…て言うか、話すべきじゃないと思うんです。あなたはこの戦争で死ぬことはなく、きちんとした未来があって、そこには幸福も喜びも待っている。僕が言えるのはそれだけです。すいません…」
「そうか…そうですよね。聞いてしまったら、描く夢も無くなっちゃいますからね。聞かない方がいいのかも知れない。それにしても…あなたはどうやってこの時代に来られたんですか?あなたにとってここは随分と過去だということなんですよね。あの…あなたの時代にはウェルズが書いた様なタイムマシンがあるんですか?」
「いや、そんなものはない…あれはただの空想でしょう」
「でも…アインシュタイン博士の相対原理では時空も絶対のものではないと…」
「君はまだ若いのに随分いろんなことを知ってるんだねえ…残念ながら僕の時代にも時空を超える技術はまだありませんよ」
「じゃあ、あなたはどうやってここに?…」
「それが、自分でも分からないんです。僕は…つい昨日までは自分の時代にいたんです…」

潤治は昨日の夜に自分の身に起きた出来事、さらにどうやって此処までやって来たのか、その経緯を詳しく話す…

「…とにかく今の僕には居場所も身を隠す場所もない…相談する知り合いも勿論居ないんです。どうなるのかも分からずに、取り敢えず生まれ育ったこの家を訪ねてみたということで…」
「でも…ここに長くいると、危ないですよ。さっきお話した様に、僕の母は軍幹部の娘ですから、直ぐに軍部に通報されてしまいますよ。今日は母が居ないので、僕も安心してジャズが聴けるんです。おしずさん、あ、さっきの家政婦ですけど、彼女だけは大目に見てくれるんです」
「そうか…分かりました。君やお母様に迷惑を掛ける訳にもいかないし、何とか自分で考えて居場所を探します。でも、話を聞いて貰える人が1人でも居てくれて、気持ちも少し落ち着きました。有難う…」
「あの、ちょっと待ってて下さい。せめて僕が一緒にいれば、どこか宿が探せるかも知れません。僕は学生証も持ってるし身元もちゃんとしてますから。あ、それと我が家には米も外食券もありますし」
「いや、そんなことまでして貰っちゃあ…」
「何言ってるんですか、僕たち親子なんでしょう?それに遠慮している場合じゃないんじゃないですか?」
確かにその通りだった…


潤治は誠治の協力のお陰で目黒駅近くの安い旅人宿に何とか潜り込むことが出来た。
この時代の宿泊施設を利用するには、現金以外に必ず米の提供が必要とされていた。
米は誠治が持ち込んでくれ、現金もいざという時に必要だろうと50円もの大金を持たせてくれた。親戚から貰う小遣いを貯めておいたものらしい。今の潤治には返済する当てもないので、咄嗟の思い付きで、いつもカバンの中に入れて持ち歩いている古いドイツ製の二針式のストップウォッチを礼として受け取って貰った。映像台本のセリフやナレーションを書く際に若い頃から愛用してきたものだ。

食事付き一泊3円20銭の宿賃は法外だと誠治は怒っていたが、それが高いのか安いのか潤治には分からない。幸い相部屋ではなく四畳半の個室だったので、ゆっくり心身を休めることは出来る。風呂も使えるし洗い場で洗濯も出来る。今の潤治にとっては申し分のない環境だ。ただしここにも長居は出来ないだろう。納めた米の量もあって、取り敢えずは5日間ほどここに逗留することとして、潤治の今後を心配する誠治とは毎日夕方の5時に目黒駅で会うことを約束し、その日は別れた。


その夜、潤治は布団の中でここ丸一日余りの目まぐるしい出来事を思い返していた。ここで『何故』『どうして』といくら考えても埒が開かないことだけは確かだ。早くこの時代に馴染み、溶け込むことが先決だ。終戦までは半年、その前に東京は空襲で壊滅状態となる…時代が急転するのだ。その時には、何か自分のなすべきことがはっきりするのかも知れない…潤治はそう考え始めた。

ここまでの疲れが出たのだろうか、直ぐに眠気が襲い始める…眠りにつく寸前にあのストップウォッチのことを思い出した。あれは確か、潤治が初めてシナリオを書き始めた駆け出しの頃だった、役に立つだろうと父がくれたものだったのだ…
その時の父誠治の悪戯っぽい少年の様な笑顔が脳裏に蘇った…

つづく...



この小説ではイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを描き下ろして頂きました。
TAIZO氏のProfile 作品紹介は…





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