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私がわたしである理由7

[ 前回の話 ]


第五章 野瀬家の居候となる(1)


翌朝、潤治たちは伊東を目黒駅まで見送った。国民服を着て女将が用意したたすきを掛けた本人の表情は、流石に緊張の色を隠し切れていなかった。周囲の目を考えてだろう、宿の主人が形ばかりの万歳三唱の音頭を取り、別れの時を迎える。

昨夜は『立派に戦ってこい』と息巻いていた老齢の常連客がそっと伊東に近付き、最後にこう伝えた。
「なあ、君は兵隊には向いておらん。だからくれぐれも命は大切にして、必ず生きて帰って来たまえ。今日見送った皆が君の無事の帰りを待っているんだから。分かったね」
「は、はい、分かりました…あ、あのお…女将さん」
「何だい?」
「あの…じ、自分は、み、身寄りがないもんで、も、もし帰って来られたら、お、お、女将さんのとこに帰って、き、来てもいいですか?」
「あはは…そうだったねえ。お安い御用だよ」
「おう、そうだそうだ。うちに帰って来な。遠慮なんてしなくていいからよ。待ってるよ」主人も嬉しそうに伊東の肩を叩いた。

数十年も前の東京の一期一会…物も安全も無いこの街には人々の暖かい人情が根付いている。潤治は自分が暮らしていた便利で安全な東京の街には、いつの頃からこの大らかな暖かさが消え去ってしまったのか…想いを巡らせていた。


正雄が旅館を訪ねて来たのは11時を少し回った頃だった。

「昨夜は本当に貴重なお酒をお届け頂いて有難う御座いました。お陰様でいいお見送りが出来ました。ご本人も凄く喜んでいらっしゃいましたよ」
潤治が外出の準備を整え、玄関口に降りて行くと、女将が正雄に昨夜の礼を告げている。
「まあまあ、こんな時代ですから、俺も皆さんみたいなあったかさが嬉しかったんですよ。喜んで頂けたんなら、俺にも何よりのご馳走ってもんです。お、潤さん、準備できたかい?じゃあ、ぼちぼち行こうか」


「正雄さん、紹介して頂けるご親戚の方って、どちらにいらっしゃるんですか?」外に出て、駅とは反対方向に歩き始めた正雄に潤治は尋ねた。
「おう、ここから歩いても大した時間は掛からねえよ。荏原のちょいと先だ。どっかで昼飯でも食いながら、のんびり行こうぜ」
「はい」
「それより、潤さん、その格好はやっぱし少し目立つねえ…まあ、今時ゃ冷えるから仕方ねえけど、他に着るもんは持ってねえんだろ?」
「ええ、ほんの2日間の出張でしたから…これ、レーヨンには見えませんか?」
「レーヨンにしちゃあつやが良すぎらあ…それより、その仕立てだ。第一そんな細けえチャックはどこにだってありゃあしねえよ。ま、早々に何か考えねえとだな…」
「そうかあ…これじゃ、やっぱり駄目ですか…でも、昨日街を色々見たんですけど、買えそうな洋服は何もなくて…」
「はは…近頃あ、服は配給か闇じゃねえと手に入らねえよ。よく見りゃあ変だぞってな感じだけど、潤さんは立場が危ねえからよ。ま、心配すんな。それも合わせて相談してみるからよ。服の一着位なんとかなっだろう」
「あの、正雄さん…そのこれから伺うご親戚の方って、どんな方なんですか?」
「ああ…こう兄さん、野瀬のせ甲一郎こういちろうっていってよ、お袋同士が従姉妹だから、俺とははとこってことだな。3つ年上の…ま、兄貴分みてえな男だ。変わった奴でよ、中学出て直ぐ活動写真の技師になるとか言って、1人でアメリカに渡ってな、で、帰えって来たら、なんとダンス教師になっててよ、上手いことパトロン見つけて、新橋にダンスホール開きやがったんだ。これが馬鹿当たりでよ。で、戦局がおかしくなってきたら、さっさと店畳んで、所帯を持つでもなく散々儲けた金で悠々暮らしてるって…そんな男さ」
「今は、何をされてるんですか?戦争には行かれなかったんですか?」
「それがよ、まあ、要領がいいってんだかなんだかねえ…アメリカなんかに喧嘩売ったら、日本はひとたまりもねえ、勝てる筈がねえって言ってた癖に、いざ戦争が始まったら、いつの間にかちゃっかり海軍の軍務局に潜り込んでよ、ほら野郎何回か渡米してるからよ、英語が達者だろ?傍受文書の翻訳とかで…」
「じゃあ、軍人さんなんですか?」
「軍属だ軍属。徴兵免除の一般市民ってことだ。今だにこの戦争は負けるってほざいててよ。俺の周りでも付き合ってるのは俺だけだ。うちの婆あや女房なんか、あんな非国民は絶対家に連れて来るなって、凄え剣幕でよ」

軍属…その人物が軍に近い人間であることを知って、潤治は急に不安になった。
「…それで、その方に僕のこと、お話になったんですか?...」
潤治の不安そうな表情を見て、正雄は笑顔を浮かべる。
「潤さん、大丈夫だよ。表向きゃあ軍属でも、中身は変人の平和主義者だ。まあ、会えば分かるから、心配すんな」


目黒から小山方面に歩き、中原街道を郊外に向かって歩いてゆくと、やがて通り沿いのあちらこちらに瓦礫の山や焼失した店舗が目立ち始める。戸越周辺はほぼ焼け野原で、昨年の11月にあった空襲の規模の大きさを物語っていた。被災に遭ったこの周辺の住人だろうか、所々で人々が黙々と瓦礫の整理をしている姿が見受けられる。

「焼夷弾ってえのは、全く…たちが悪いや…見てみなよ、そこいら中油ぶち蒔けやがって、はなから丸焼けにするつもりだ。彼奴らはやり方がえげつねえや。まあ、戦争にえげつねえもへったくれも無えんだろうけどよ」正雄が吐き捨てる様に言う。

大分以前のことではあるが、潤治は終戦記念日の特別番組の構成台本を書いたことがあった。戦中末期に日本各地を襲ったアメリカ軍による大規模な空爆。そしてそれに続く広島・長崎への原爆投下。荏原近辺の広範囲に及ぶ焼跡も単なる終わりの始まりに過ぎないことを潤治は良く知っている。被災から2ヶ月以上も経っているにも関わらず、辺りには細かい黒色の埃と独特の焦げ臭が漂っていた。

「ほら、潤さんも暫くこれで口は塞いどいたほうがいいぜ」正雄が手拭いを結んで口を覆い、手にしたもう一枚を潤治に手渡す。
「あ、どうも…有難うございます…」潤治は正雄に倣いながら考えを巡らせる…

『この街では、もう間もなく10万人以上の人々が命を落とすことになる…それを知っているのは自分だけなのだ。何故自分がここにいるのだろう?…もしそこに何かの理由があるとしたら…それは、自分だけが出来ること…多分、自分には多くの人々の命を救うことが出来る。でも…そんなことをしたら、多少なりとも歴史という事実が変わってしまう。歴史が変わるということは未来の姿も変わってしまうということだ。もしかすると、自分の存在そのものが無くなってしまうかもしれない。これが単なる事故であるとしたら、自分はこの時代にあまり関与することなく、ひっそりと身を隠していた方がいいのかも知れないが…それでいいのか?…今、目の前にいる正雄は?…昨夜心を通わせた旅荘の女将や主人は?この世界で自分の身の安全に協力してくれる人たちは、この大きな戦災を免れることが出来るのだろうか?…自分は自分に出来る筈のことを隠して周囲の人々を見殺しにしていいのだろうか?…』
潤治にその答えを見付けることは出来なかった。恐怖…愛着…孤独…感傷…躊躇…今、少なくとも出来ることは、自分の素直な感性に従い自分の身を守ること…それに専念するしかないと自分を納得させた。


そこは洗足に近い閑静な住宅地だった。周囲を高い垣根に囲まれた300坪もあろうかという奥行きのある敷地に広い門柱を抜けて入ると、大きな平屋の木造家屋、その脇にはモルタルの洋間が加えられている。さらに玄関右脇には駐車場と倉庫らしい離れ家屋が隣接されていた。駐車場には幌付きのトラックと黒塗りの乗用車が停められていた。

「随分立派なお宅なんですねえ…お1人で暮らされているんですよね?」門から玄関までの広い車用路を歩きながら潤治が尋ねる。
「ああ…何でも海軍の偉いさんの官舎らしいぜ。戦地の参謀に赴任ってえことで、3年前位から甲兄さんが預かってんだ。何たって兄さんは持ちもんが多いからよ、前のダンスホールの内装だら蓄音機だらレコードだら、全部そっちの離れに仕舞い込んでんだよ。そのトラックも兄さんの持ちもんだ」
「あの乗用車もですか?」
「ああ、ありゃ海軍さんのもんだ。ほら軍の番号票が付いてんだろ」


玄関で2人を出迎えた野瀬甲一郎は、ひょろりと背が高く、この時代には似つかわしくないモダンな雰囲気を漂わせた快活な人物だった。明らかにウール地の太めのズボン、厚手の綿のシャツに薄茶色のセーターを着込み、髪はポマードでしっかりと七三に撫で付けられている。

2人は母屋脇の広い洋室に通された。そこは甲一郎が書斎兼寝室に使用しているということで、デスクに大きな書棚、中央には小振りのテーブルがあり、隅には簡易的なベッドと小型の達磨ストーブが設置されている。燃料の供給が不十分となったこの冬からは甲一郎は殆どこの部屋だけで生活しているらしい。

驚いたことに訪れた2人には、何と本物のコーヒーが振る舞われた。ソーサー脇には角砂糖まで添えられている。
「ああ…こりゃ、本もんのコーヒーだ…やっぱり甲兄さんとこは違うねえ…」正雄が笑顔でカップを傾ける。
「今時コーヒーがあんのは海軍だけじゃねえかな。台湾産かなんかだろうから大して旨かあねえが、それでも代用よりゃマシだろ?」
「僕は、こっちに来てから、本当のコーヒーにありついたのは初めてです。コーヒー好きなんで、凄く嬉しいです」潤治も旨そうにカップを啜る。
「そうかい、そりゃ喜んで貰えて何よりだ。はは…」

甲一郎は笑顔を浮かべて少しの間潤治の様子を眺めていたが、やがて真顔で再び口を開いた。
「さて、それでだ…大体の話は正雄から聞かせて貰ったけど、川出さん、どうやら見たとこ、冗談や眉唾じゃあなさそうだな…あんたの話は…」
「信じて…頂けるんですか?…」
「正雄はいい加減な野郎だけど、俺に嘘をつく様な奴じゃねえ。それに、あんた見てると、おんなじ時代の人間たあとても思えねえ。着てるもんも、履いてた靴も、持ちもんも、その髪の刈り方だって、よく見りゃバリカン使わねえで丁寧にハサミが入って、この辺りの散髪屋じゃあ出来ねえ芸当だ。身のこなしもどっか上品で洗練されてるし。正雄の話を裏付ける事ばっかりだ。何処か別の世界からやって来なすったってえのは確かな様だ…で?あんた、潤治さんて仰ったかね。俺に一体何をして欲しいんだね?」
「そこだよ甲兄さん、とにかく潤治さんはよ、困ってんだ…」
正雄が割って入ろうとするのを浩一郎が遮る…
「まあ、お前さんは黙っててくんねえか。俺はこの人の話をこの人の口から聞きてえんだよ」甲一郎はそう言って、真っ直ぐに潤治を見つめる。

「あの…正雄さんからどこまで聞いてらっしゃるのか分かりませんけど、僕は…70年以上先…つまり、未来から突然、ここに…何ていうか…その…飛ばされてしまって…えーと、それは…不可抗力みたいなことでして…」
潤治は緊張する心を抑え、ここ数日の間に自分の身に起こったこと一つ一つを丁寧に説明し始めた。どの様な状況でどの様な緊張と危機感を感じているか、自分がいた時代がどんな社会だったのか、この時代の東京に自分が存在していることがどれ程厄介で困難なことなのか、その思いを感傷的にならない様に事実を積み上げていった。


つづく...


この小説ではイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂きました。
TAIZO氏のProfile 作品紹介は…





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