私がわたしである理由17
第十章 東京大空襲(2)
翌日3月4日、日曜日の朝8時過ぎ、潤治の記録通り百数十機ものB29が東京首都圏に飛来し、北部を中心とした各市街地に焼夷弾が落とされた。
投下後も爆撃機は焼夷弾による類焼を確認する様に暫く上空を旋回し、やがて南方面に飛び去っていった。被害は甚大ではなかったものの、攻撃対象は明らかに無差別で、600人以上の民間人が犠牲になった。
これがかの東京大空襲の事前調査と威嚇警告であったことが知られたのは、終戦後になってからのことである。
「で、下町の方たちの反応はどうでした?」スワンのいつものテーブル席で潤治は正雄に尋ねた。
「おう、親戚筋とな、近い仲間連中には伝えたけど、ま、みんな半信半疑ってとこだったな。今朝、ほら潤さんの言った通り、えれえ数の爆撃機が来やがったろ。あれで多分噂は広まると俺は踏んでるんだけどよ。どっちにしろ、ここ何日かは通ってみるつもりだけどよ」
「僕の方も、電話のあるところには知らせておきました。今日は学校の友人と手分けして心当たりを回ってくるつもりです」誠治も真剣な眼差しで加わる。
「兎に角、この2、3日は忙しいことになりそうだな。ま、商売が動いてねえから時間はたっぷりあるからよ。そうそう、それと今日は、これから俺たちがどう連絡を取るかってことを相談しようと思ってよ…」
「そうですよねえ…甲一郎さんのとこの電話には盗聴が入る可能性が大きいですからねえ…」
「僕も祖父から、野瀬さんには暫く距離を置く様に言われています」
「それで、昨夜、ちょいとよ、ここの康男と相談したんだよ」
「康男さんって、ここのマスターのですか?大丈夫なんですか?」
「もちろん、潤さんの色々ややこしいことは言ってないぜ。元々康男とはよ、ガキの頃からずっと同級生で、気心も知れてんだ。ここだけの話だけど、彼奴も俺とおんなじでこの戦争はもう先がねえと思ってんだ…」
百反の喫茶店『スワン』の店主康男は日中戦争時に徴兵され、戦闘経験もあったが、現在は予備役。町会の防衛訓練の役員ということもあって、再招集は免じられている。決して口には出さないが、本土空襲が始まった頃から軍中枢の姿勢には疑問を持っていた。
「おいっ!やっちゃん!申し訳ねえけど、手が空いたらちょいとこっちに来てくんねえか?」正雄はカウンターの向こうのマスターに声を掛けた。
「まったく…今朝方の爆撃機の数、見たかよ。おかげで今日は客足もすっかり遠のいちゃってさ、常連さんも誰も来やしねえ。まあ、売るものも大して無いから、とっくに商売にはなってないんだけさ。はは…」店主の康男は自嘲的な笑顔を浮かべながら正雄たちのテーブルに着いた。
「いや、客がいなくて丁度いいや。昨夜の話なんだけどよ、やっちゃん、いいんだよな?」正雄が康男の顔を窺う。
「ああ、電話のことだろ?俺は別に構わないよ」
「そうかい。助かるぜ。いや、これからの連絡にこの店の電話、使わせて貰おうと思ってな」正雄は補足する。
「いいんですか?こちらの事情とかも…承知されたんでしょうか?」潤治が不安げに康男の顔を見た。
「ああ、それは話さないで下さい。正雄からも詳しいことは何も聞いてません。俺は何も知らない方がいいんですよ。海軍省とか機密情報とか、そんな物騒な話は関わりたくもないんで…」
「なんだか、ご迷惑を掛ける様で、巻き込んじゃあ申し訳ないんじゃないんですか?」潤治は正雄の顔を窺う。
「ああ、いや、そういうことじゃねえんだよ」
「ええ、協力はしたいんですけどね。俺はガキの頃から気が小さい性分で、もしも万が一官憲に目え付けられて尋問なんてことになったら、絶対に直ぐに口を割っちまいますんで、いっそ何も知らない方が安全ってことなんですよ。なあに、こんな不便な世の中になっちまってんですから、店の常連さん同士の連絡を手伝ってるってことにしときますから…へへ…どうも、頼りなくてすいません」康男は申し訳なさそうに弁解した。
「まあ、そういうことだからよ。お互い連絡取りたい時はよ、甲兄さんとこの電話は使わねえ様にして、ここに伝言を残す様にさせて貰うからよ。俺は毎朝ここには必ず顔出すしよ」
「分かりました。じゃあ、甲一郎さんにもここの電話番号伝えておきます。マスター、助かります」
潤治が頭を下げると、康男は少し真顔で答える。
「いや、くれぐれも大事な話は俺には伝えない様にしてくださいよ…」
その後、潤治は技術兵の伊東と共に2回の夜間傍受作業を終えた。前回は録音機の故障を装って大空襲の可能性を報告したが、敵の南方基地からの傍受内容では、実際に各基地に大量の人員が配備され始めている様子を窺える会話内容が多く、潤治から甲一郎に上げられるいくつかの傍受報告には録音ワイヤーも添付され、帝都大空襲の信憑性をさらに高めていくこととなった。
一方、正雄、甲一郎、誠治の3人は、数日間思い付く限りの伝手を辿り、下町方面に住む人々に10日未明の大空襲の情報を流布させようと、奔走していた。
潤治が再び『スワン』で正雄と顔を合わせたのは、夜勤開け休みに当たる3月9日の日没過ぎだった。
正雄は数日間、知り合いの間を走り回っていたのだろう。流石に疲労を隠せない様子だった…
「今日は、誠治くんは来ないのかい?」
「ええ、今夜は自宅にいるって…知り合いの何人かが念の為避難してくるそうで…」
「ああ、そうか。俺の方も、まあ、やるだけのことはやったぜ。伝えたうちの半分がとこは今夜は山手の伝手を探して避難するって言ってたけどよ。残りの半分はまあやっぱり半信半疑だな。ただ、用心はするって言ってたから、何もしないよりゃマシだったんだろうぜ。潤さん、飯ゃまだなんだろう?ちょいとうちに寄っていきな。ま、大したもてなしゃねえだろうけどよ」
「いつもすいません。助かります。甲一郎さんも今日は遅くなるって言ってましたから」
山口屋に着く頃にはもうすっかり辺りは暗くなっていた。店先には何故かきくが落ち着かない様子で立っていた。
「あら、あんた…あんた達の方が早かったねえ…全くもう…」
「なんだ?どうした?まだ店閉めてねえのか?功夫はどうした?」
「それがさ…お義母さんがねえ、どうしても叔母様連れて来るって、イサどんと積ちゃん、手伝いに連れて行っちゃったのよお」
「叔母様って、浜町の八重おばさんのことかい?」
「そうなのよ。ほら、あんたが昨日行ってさ、家を離れるのは嫌だって断られたって言ったでしょ?で、もう一度説得して連れてくるって…あんたが帰るまで待てって言ったんだけどさ、あたしがちょいと用足ししている間に2人連れて…」
「で、まだ帰って来ねえのか?出かけたのはいつ頃だ?」
「3時過ぎくらいだったかしら…本当にもう嫌んなっちゃうわ…どうしよう」
八重は久邇の実妹、正雄の叔母に当たる。今は以前商売をやっていた地元下町の借家に老夫婦2人で暮らしているという話だった。
「全く…人騒がせな婆あだぜ。八重おばさんはともかく、おじさんは相当の頑固もんだ。そうやすやすと家を離れるもんかよ…仕様がねえなあ…夜は電車も動いてねえっていうのに。どうするつもりだ…まあでも、あそこは直ぐ近くにでっけえ避難所もあることだし、まあ、いざとなっても大丈夫だろうがよ」
「え?浜町?…あの…浜町って、もしかして本所の浜町…ですか?」潤治が何かを思い付いた様子で恐る恐る尋ねた。
「ああ、本所の浜町だけど。潤さん何か思い当たることでもあるのかい?」
「…って言うことは、大きな避難所って…もしかしたら…明治座…のことですか?」
「おう、潤さん、よく知ってるねえ。叔母の家はよ、明治座の直ぐ近くなんだ。あそこなら千人がとこ避難できるコンクリートの頑丈な地下があるんだぜ。いざとなりゃあ、あそこに入りゃあまず安全てもんだ」
潤治は驚きの表情で暫く言葉を詰まらせた…
「正雄さん…直ぐに…直ぐに迎えに行かなきゃ…大変だ…それ、みんな危ないです…」
3月10日未明、東京大空襲…その一晩の火災で8万人以上、いや、一説では10万人以上の市民が命を落とした。
その中でも最も大きな惨劇として後世に伝えられているのが本所・浜町の明治座だ。
当時堅牢なコンクリート建築だった大劇場・明治座は広い地下空間を有していた。有事の時にはこの地下空間を避難所に提供していた為、周囲の民家や軍事工場では防空壕を持たず、明治座地下に一千人規模の避難者が集中することになる。
ところが焼夷弾による無差別絨毯爆撃では大量の燃焼剤による火災の威力が強く、明治座の建屋自体がおよそ一千人の避難民を地下に飲み込んだまま業火に包まれてしまった。人々はあまりの熱さに、外に逃れようと、地上と地下を隔てる扉を開こうとしたが、堅牢な鉄の扉は熱によって変形し、固く閉じられたままとなってしまった。地下に避難していた者全員が生きたまま蒸し焼きにされるという大惨事を招いたのだ。
「え?どういうことだ?潤さん、何か心当たりがあるのかい?」正雄は潤治の表情を見て、ただ事ではない危機を感じ取った様だった。
「あ、あの…本所の方で何か、あるんですか?」きくも不安げに潤治を見つめる…
「とにかく…急ぎましょう。12時を回ったら、空襲が始まってしまいますから。事情は途中でお話ししますから…急いで迎えに行きましょう」
腕時計の針はもう7時をとっくに回っていた…
灯火管制の中、雲ひとつない空には無数の星が煌めいていたが、下弦を過ぎた三日月は細く、ほぼ暗闇の道をきくが持たせてくれた弓張提灯の灯りを頼りに2人は本所への道を急いだ。
途中幾度も巡回中の警察官や防災指導員に呼び止められたが、通例夜間勤務の潤治には軍属用の夜間外出許可証も持っていたので特にトラブルにはならなかった。それでも、尋問の度に時間が過ぎていくので、2人とも気が気ではなかった。
潤治が道中、大空襲時に起きた明治座の惨劇について説明したこともあって、正雄も気が気ではない様子だった。
2人がようやく本所・浜町の叔母八重の家に到着した時には時計は既に10時半を示していた。
八重の家は小さな庭を有した小振りの平屋だった。
ドンドン…正雄は玄関の板戸を叩く…
「こんばんわあ、こんばんわあ、俺だっ、正雄だっ!誰かいねえかいっ!おいっ!」
暫くすると、玄関に灯りが点り、引き戸と板戸が開く。
「なんだい。正雄じゃないか。こんな夜更けに…」久邇を一回り小さくした良く似た顔立ちの寝間着姿の老女が寒そうに肩から掛けたショールをしっかり手で抑えて、怪訝そうな表情を覗かせた。
「あ、大将…」後方から眠そうな顔を覗かせたのは功夫だ。
正夫と潤治は玄関に入る…
「夜更けもへったくれもあるかよ。直にこの辺りは火の海になっちまうって言っただろう」
「だって、お前…本当にそんな大きな空襲があるかどうかも分かんないじゃないか。それに、姉さんが来て、今日1日だけでもあっちに来いって言うからさ、それじゃあって、色々身支度してたら、生憎うちのが腰やっちまったんだよ」
「なんだ、おじさんまた腰痛か?」
「そうなんだよ。夜は電車も動いてないしねえ、まあなんかあったら、大事なもん抱えて避難所に行きゃあ大丈夫だろって、姉さんも功夫も積ちゃんも今日は泊まってもらうことにしたのさ。だって、電車も走ってないのに、帰すわけにゃいかないだろう?」
「いやいや、危ねえ危ねえ。その後の情報でよ。どうも明治座はヤバいらしいんだ。あそこに逃げ込んだら命はねえってよ。だから、慌てて迎えに来たんだよ」
「ええ、明治座は集中爆撃の標的になっているそうで…」潤治が付け加える。
「この方は…どなただい?」
「あ、川出さんていってよ、海軍省の人だ。そのこと知らせてくれたんだよ」
「本当なのかい?…」
「正雄…」「お父さん…どうしたの…」
久邇と積子も玄関に顔を出した。
「おう、母さんも積子も、何でもいいから早く身支度しろ。ここは危ねえ。直ぐに家の方に帰えるぞ」
「だけど、正雄、うちのはとてもじゃないけど、歩けないよ…」八重が狼狽えた顔で訴える。
「何でもいいよ。俺がおぶってでも連れてくからよ。兎に角さっさと着替えて、大事なもんだけ持って…おい、功夫、叔父貴ここに連れてこいっ!」
「あの、大将…」功夫が恐る恐る切り出す。
「何だよ?」
「あの、俺…もしかしたら店まで歩かなきゃなんないかと思って、この近くの知り合いからリヤカー1台借りてますけど…年寄りも多いし…」
「何だ功夫、気が利くじゃねえか。じゃあ、リヤカーに布団敷いてよ、叔父貴乗っけようぜ。みんなも早く支度してくれよ。さっさと引き上げるぞっ」
正雄と潤治、八重夫婦、久邇と功夫と積子…全員が揃って出発できたのは30分以上も経ってからのことだった。
準備の間、功夫は近所の顔見知りの家を回って、急ぎ避難の準備をするように、明治座の地下には絶対に避難しないように大慌てで知らせていた。
潤治の忠告で正雄たちは急ぎ下町を回避することにする…
川や運河沿いを避け、まずは山手方面を目指した。皇居外苑が見え始めた頃、不気味な轟音と共に数百機ものB29の大編隊が夜空を覆い始め、遥か後方で爆撃音がし始める…
やがてそれに加えて空襲警報も響き始めた。
爆撃はどんどん近付いてくる筈だ…
「おいっ!潤さん、どっちが安全なんだ?」
「皇居を回り込んで、赤坂の方に向かいましょう!」
「おい、お袋たちっ!急ぐからリヤカーに乗れっ!功夫、積子を頼むぜ!」
バラバラと大粒の雨音の様に連続する爆撃音と、後方下町一帯に広がり始める火災の光に追い立てられる様に、一行は必死で足を早め、ひたすら山手を目指した…
つづく…
この小説では、さる7月7日に急逝されたイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂いております。
本編掲載中は氏のイラストを使わせて頂くことと致します。
故TAIZO氏のProfile 作品紹介は…