旅とデータと日本の課題 (1/5) 近況 海外での実感
全5回の目次
1 松村の近況:世界旅行とビジネススクールでの実感
2 日本の現在地:成長と幸福、栄枯盛衰におけるフェーズ自覚
3 国家の成功要因:108因子の効果を一覧する
4 日本の重大課題:最重要因子で最下位。熱意の崩壊
5 努力の優先順位:国家の戦略効率を測る
続編の目次
第一回は、放浪して、留学して、日本の課題を見える化しようと思った個人的な話。
(客観分析レポートは2から↓)
45歳になった2023年、人生で三回目の世界一周旅行に出た。(アメリカ、メキシコ、ブラジル、ポルトガル、スペイン、スイス、イギリス、ドバイ、香港、シンガポール、オーストラリア、タイ、マレーシア、インドネシア) 目的地も計画もなく毎日を全力で楽しむ、こういう生の旅がどうしようもなく好きだ。着陸した街を朝から晩までひたすら歩く、光を観る、歴史を知る、人と関わる。スリリングな探検、享楽的な嗜み、神秘的な経験、哲学的な気づき、物語の再編集。世界の多様な魅力からインスピレーションとエネルギーを心身に充填した。
1999年、20歳のバックパック旅行は、他民族への好奇心で溢れていた。成熟し整然とした日本から離れ、飾らない生の人間生活に触れることが刺激的だった。未開への旅、冒険という趣向が強かった。円の強さは、その妥当性の解釈ができないまま、日本に生まれた幸運と優越感を与えていた。
四半世紀たった今回はずいぶんと趣が違う。日本はもはや先進国ではなく、他国は憧れ、学ぶべき対象になった。国際的に日本がそんな後進ポジションに移ったことに気づいていない日本人も少なくない。しかし行って感じれば認めざるを得ない。他国には、日本にはない(あるいは失ってしまった)輝きがある。その輝きに、ただしく(あらためて謙虚に)憧れることも大切だと思う。
各地の文化や生活の多様な魅力は語りだせばきりがない(土産話は別の機会にしよう)。たくさんの素晴らしい体験をしながら「国の輝き」を成立させている要因は何だろうかと考えていた。50数か国を歩いた帰納的な推論として、良い国には、「個人の活力」と、「社会基盤の効率」があるのだと思った。そして、その2軸で振り返ったときに、今の日本はどのくらい良い状態にあるだろうか。もやもやとした気持ちが整理しきれないまま旅を終え、せわしない仕事の日常に戻った。
生身の旅で体感したこの問題意識は、翌年のエグゼクティブプログラムと客観データ分析を通じてより深刻に、鮮明になっていく。
2024年1月。期せずして、グローバルなビジネススクールの経営幹部プログラム、AMP(Advanced Management Program)に参加することになった。場違いだと思いながら、敵地に身を置くつもりで冬のボストンに赴いた。(私は子供のころから学校というものが苦手だし、ましてビジネスなんて座学で学ぶものではないと思っている。ただ、苦手意識や違和感がある場所に混ざったときにこそ一つ上位の統合的な気づきを得られることも知っている。)
AMPには180人の同級生が50ヵ国から集まっていた。8人ずつのリビンググループが割り当てられ、日本人の私は、インド人、ブラジル人、レバノン人、オーストラリア人、ノルウェー人、ドイツ人と同室になった。この仲間で毎日数時間におよぶディスカッションを通じて学ぶことになる。(個人でのケース予習、グループでの討議、講師ファシリテーションによるクラス討議、という3段階で学ぶメソッド)
ケーススタディもよく出来たものではあったが、やはり座学の限界か、最前線の現場(楽天)で背負うことによる学びには遠く及ばない。一方、講師、同級生の熱量、リーダーシップ、コミュニケーション、生き方からは多いに刺激を受けた。まず圧倒されてしまう。最初は、何に圧倒されているのかも分からないが、国民性の違いに由来している部分が大きいことも分かってきた。
(国民性の国際比較データを眺めると、たしかに日本はかなりユニークな文化・価値観を持っていることが分かる。長期志向で規律があり、婉曲的でリスク回避的、といった特性が際立っている。第二次大戦後の数十年はこの勤勉な国民性が奏功し経済的な大成功を収めた。ではその後の低迷は何が原因なのだろうか。世界の成功要因が変化し、日本の国民性がフィットしなくなったということだろうか。あるいは日本人の国民性の方が変わってしまったのか。)
はたして、ビジネススクールという文脈において日本はもう注目すべき対象ではなくなっていた。主要国のマクロ経済を学ぶクラスの対象国からも外されている。やっと出てきた日本企業のケースもDX失敗事例として他国の成功企業の引き立て役を演じていた。
日本が強かった時代にその恩恵を受けて育った世代(団塊ジュニア)として、母国が存在感を失っていくことに耐えがたい悔しさを覚える。社会の中でもリーダーを担う年代になり、ただ心配や批判をしているだけでは許されない、責任は自分(たち)にある。個人的な悲観で終わっていて社会が変わることはない。客観的に現実認識することからやり直さなければならないと思った。
(現実を直視し、解くべき課題に向き合い、再成功へのシナリオを描く、その方法と仲間を作っていく、これがこの世代のリーダーとしての社会的責任だと思うようになった。課題は巨大で、自分は微力でしかない。それでも誰かがやるしかない。向き合うことができれば、解決をやり切る力が、日本人にはある。)
<個人的な収穫として、これまで20年間に独自開発してきたフレームワークや信念がグロ-バルの経営幹部レベルでも影響力を持つ、という手応えを得た。特異な有益性が実感できたことで、それを活用する使命感が高まったように思う。ハーバードらしいリーダーシップ文化の影響も一定あったのだろう>
(2 データ分析 につづく)
補足 (より個人的な話)
一回目の世界放浪のこと。奈良で育ち、東京に出たくて大学に進学したが、専攻の学業には身が入らなかった。大学2年のころ、学校にいるより、自分の体で経験すること、実際に働くことから学べることが多いだろうと思うようになった。(日本の)大学生があまりにゆるい時間の過ごし方をしているように感じた。海外旅行から帰ってくる度に、成田から東京に戻る電車で見るサラリーマンの元気のなさが心配になった。そもそもこんなにゆるい日本がなぜ世界で最上位クラスに位置するとされているのが不思議で仕方がなかった。
大学を辞めようと両親に相談をした。父から、条件つきで休学することを許可してもらった。条件のひとつは卒業はすること。もうひとつはアメリカの強さについてレポートを書くこと、だった。ぬるま湯にいた自分には、そんな分析をどうやればいいか皆目見当がつかなかった。
大学進学をせず世界的建築家になった安藤忠雄さんの事務所に住み込みバイトしながら薫陶を受けた(安藤さんの在り方の影響がいまも自分の中にあるのを感じる)。旅から学んだという安藤さんへの憧れもあって、世界30か国のバックパック一人旅に出た。旅を通じて、世界を動かしている大きな力は、宗教とビジネスなんだなと思った。それが原点となって(建築は離れ)、経営戦略や理念構築の仕事をするようになった。父へのレポートは提出しないままだった(父は覚えていないだろう)。自由を認めてくれたことに応える自分に達していない後ろめたさがあった。
今年46歳、放浪に送り出してくれた父の年齢に達した。遠回りばかりしている人生だが、27年前にもらった宿題をやっと提出することができた。