クリエイターと名乗れない
映画『マンガ家、堀マモル』原作のsetaさんにお会いして、少しお話しさせてもらった。
リアルで知ってくれてる人はわかるかもしれないんですが、僕もうほんとに緊張とかしなくて、どれだけ偉い人でも成功している人でもいつもの通りに接することができます。それによって無礼だと言われることもありますが、まぁそれはそれでしょうがないよねと。その方の成功とその方自身は別で、存在に上下はないよねって思って生きてます(だからこそ仲良くなれてる方が沢山います。ほんといつもありがとうございます!)
そんな僕ですが、めちゃくちゃ緊張しました。
集合時間に少し先に着いてしまい、同じく先に着いたsataさんらとの間を持たせるために、僕の持ちトークのうちウケの良いものを3つ披露するなどしました。二十代後半の頃やってたムーブです。思い出すだけで恥かしい...。
お話が楽しかったのはいうまでもないんですが、いやマジで今なおこの緊張感なんなの?っていうね。ほんとなんなのよ。
と言いつつ、薄々はわかってるんですよ。
自分自身をクリエイターだと自信を持って言えないこと
これに尽きるなと。
いやーなんなんでしょうねこれ。僕自身、媒体として「文章」を選んで、ショートショートや小説を経た後、今の「エッセイ」って形に落ち着いてるわけです。それなりに、って言うほどでもないですが、大体一次審査、二次審査は通って、最終は落ちる、くらいのレベル感という感じでしょうか?
フィクションだとそのくらいのレベルかなぁと思ってます。
(今読むと拙っ...!!)
そして、そこの葛藤を経た後、今の形です。「ただ書く、よ。」です。これなら無限に書けるし、日々レベルが上がっていってる感覚もあるので、これをやり続けることこそが自分の才能の発揮だと思っています。
が!!!!
ですよ。
自分のことクリエイターだと名乗れませんでした…。
悔しい。とても悔やまれる。。
正直言って、僕と同じくらい創作と向き合ってる人いたら、僕は絶対その人のことを「クリエイター」って言うんですよ。お金稼いでなかろうが、専業じゃなかろうが、受賞してなかろうが、絶対。誰がなんと言ってもクリエイターです。そこに自信はある。だけど、僕は僕のことをそう思えない。
(本の中でみんなクリエイターだぜ!的なことを書いておきながら…)
うー、どうやったらこれ自分でも納得して名乗れるようになるんでしょうね?受賞とかなんでしょうか?ただ、この「ただ書く」というのを選んでから、受賞は諦めてます。というか、そっちから考え始めるとブレるのがよくわかってるんですよね。書きたいことが書けなくなるというのが。創作部分にマーケット思考入れちゃうと仕事と一緒になってしまう。
じゃあ、僕の行動の中で最も目立つのが創作部分にすればいいのか?
と言われたら、それはそれでそうかもしれないんですが、実際難しいな、と。だって他の活動はめちゃくちゃマーケット思考なわけです。いま、どこに、何を置けば、この世界で受けるのか?を常に考えてやっているので、どうしてもそうなります。え、ほんとに教えてよ、どうすればいいのよ?
以前、彼が「憧れは理解から最も遠い感情だよ」って言ってたのがよくわかりましたね。
もうちょっと俯瞰して。
今書いてるものを「エッセイ」と名付けてるんですが、よくよく考えるとエッセイだけを書いてる人あまり自分のことを「クリエイター」って言ってない気もしますね。例えば、芸人さんがエッセイ書いても「エッセイスト」とは言わないというか。専業の方は言うのかもしれないですが、名前として弱いって可能性はあるような気がしてます。
以前、「エッセイ」の定義で、すごく腑に落ちるものがありました。
文学未満。追憶。このあたりがとても刺さって、自分が書いてるものを「エッセイ」と呼ぼう、と決めたような気がします。
頭の中がうるさくて、普段いろんなことを考えてしまう自分を嫌で嫌で仕方なかったこともあるけど、それを全部ただ書くことで自分自身がまず救われて、その結果、誰かに読んで良かったって思ってもらったとき、ああ、これ一生やろって思った。そういう自分の内面の吐露。普段見せない内臓をちゃんと見せていく。それが多分自分にできる1番の創作活動だろうなって思ってる。
こういうエッセイを書かずにいられない状態。すごく今の自分としては健全だと思ってる。
と、ここまで俯瞰して、じゃあなぜ僕は自分のことをクリエイターと名乗りたいのか?って問いに行き着く。んん??名乗りたいのか???
あーこれちょっと嫌な感情あるな。
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