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期限のない目標は無意味、なのか?

さて今日は何を書こうか。僕にとって書くってのは、自分の本当に思っていることをそのまま伝えるってことで、とても心が楽になる。これは一方で、普段そういうことができてないってことの裏返しだったりもする。とすれば、日々こういうことが対話でもできるようになるのが望ましいのだろうか?

たとえば、ありがたいことにいろんな会にゲストとして呼んでもらえる。その場では、そこの人たちが楽しんでくれればいいと思う。だから、そのためにできることはしようと思っている。

ん、待てよ?
これ自体が思い込みなのだろうか?別にみんな楽しまなくてもいい?僕が僕のままでいればそれでいいのか?

といいつつ、せっかくなら、という気持ちは消えない。
楽しい方がええやん?

あとは、求められていることと、普段考えていることのギャップが大きいのかもしれない。たとえば、呼ばれる時は大体ポジションをとったことである。今だと「地方×スタートアップ」とか「地方×VC」とか「地方×メディア」とか。我ながらとてもいいポジションにいさせてもらってると思う。ありがたしありがたし。

もちろんポジションにいるからこそ得た情報やチャンスや思考によって、ある程度は「誰かのため」になることが言えたりやれたりすると思う。だけど、あくまでそれらは僕の一部。とても些細な一部。大きくなることもあるけど、些細。だって、仕事とかどうでもいい。いや、どうでもいいというとすごく語弊がありますね。一つ一つはとても大切。目の前にいる人に何か渡せた時嬉しくなる。VCやってるのだって、ここに生まれたってだけで他の人よりチャンス少ないのおかしくない?って思ってるからだし。

とはいえ、「仕事」とかでよく言われる、人生の多くの時間を使うことを楽しいことにした方が良くない?って思想は、そもそも「仕事」を過大評価しすぎだとも思う。生きるとか暮らしとかそういうもののあくまで一部にすぎない。そのくらいのもの。僕らは自己紹介を「仕事」に寄せすぎてる。まぁそういう場面で会ってるから仕方ないんだけども。


最近ぼくだと文章をたくさん書いてる。
これは冒頭でも言ったけど、自分の心とかで本当に考えてることを書くのが心地いいから。あまり他者の視点はない。自己満。読んでくれてる人が何かを得てくれたら嬉しいなぁとは思うけど、僕が、僕自身が「この世界、案外ありだなぁ」って思ってることを書いてる。だから、(へこんだりすることはあるけど)あまり悲観的なことは書いてない。結果としてね。書かないって決めてるわけじゃなくて、ありじゃんってこと書いてるから必然的にそうなっているというか。それで、同じように「たしかに、この世界ありだね」とかなってくれたら最高ではあったりするけど。ぐだぐだ言ってますね。でも本音。

メンバーシップに挑戦してて、これはこれで楽しいけど、どっちかというと、この「ただ書く、よ。」とはちょい違う。なんというか、心地よさ、書きたくてたまらないってのは、こちら「ただ書く、よ。」。一方で、体験や思考の突き詰めの結果得た、何らかのこの世界の真実みたいなやつが「道草思考」に入ってる。もちろん過去の哲学者がたどり着いた境地の模倣になってるけど、現代の身体性を持った僕が、僕の体験を通したことで生まれた言葉で書くことに価値はあるんだろうなぁなんて思う。だから両方やってる。前者が無料で、後者が有料なのもなんとなく自分の中で整理できてきた。

ワールドトリガーの最新28巻。麓郎の悩み。それに対する回答。いくつもいくつも学ぶことはあるけど、たとえば「期限のない目標は足踏み」という思想はとてもその通りだと思う。作中でもあったけど、僕らは失うことを意識するのが難しい。それは痛みに弱いから。痛がりなんだ結局ぼくらは。ものを落として壊しちゃった時、とても辛くなる。それと同じように「時間」も壊しちゃってる。けど、その痛みに耐えられないから見ないように無意識に決めている。期限がないとそれがうまくいく。

100日で100万円稼ぐ。
とすれば、1日1万円稼ぐ必要がある。もしくは、100日後に100万円手に入れるための施策を日々出さなければならない。ここは見積もりの問題だけど、1日1万円手に入れられなければ、その日1日は無駄になる。1日という「時間」を壊しちゃったことになる。そういうお話。非常にシビアだけど、到達したい場所があるならとても有効。

これに真っ向から対立するのが「目的への抵抗」を謳う國分功一郎氏。目的ってのをつくったら、全てが手段化するよっていう。ハンナ=アーレントさんとかもそうですね。上記の例だと、1日1万円達成できなかったとある日を、目標を作ってしまった僕らは豊かな1日と認識できない。ただ壊した1日。でもその日にあった、当たり前に感じた風だったり小鳥の囀りだったりはとてもとても豊かなもののはず。でもそういうものを全て無駄なものとして位置付けてしまう怖さが「目標」や「目的」にはある。

ワールドトリガーと國分功一郎。
一見すると何ら関係ない2つの事象が、実は結構深いところで繋がり対立しあってるの面白いですよね。

自分に引きつけて考えるとどうだろうか?
「ただ書く、よ。」は、ある種目的の外にある行動。ただ書きたいから書いてて、書いたら書いただけ幸せ。なんという豊かさ。現代の晴耕雨読。理想の暮らし。

一方で「道草思考」、というか、メンバーシップは目標を作ってもいいのかもしれない。「メンバーシップ1000人を1年で達成」を目標とする。とすれば、ざくっと、1日3人加入してもらうアクションが必要。それに伴って、打ち手の数などのKPIと、振り返りによる改善が求められる。その日1日レベルに落とし込んだ目標達成のための手段。それが達成できなかった時の「時間」を壊した感覚。これが生まれる。

前者だけだと、とても毎日幸せ。何も求めるものはない。一方で、自分自身の成長みたいなものを感じるのは難しい。それがいるのか?って問いはあるけど、確かに「目標」に向かうことで、成長を実感できる。これは今やってみていてとても感じるところ。

ちょっとズレるかもしれないけど、僕らって幸せに最適化されすぎてて、もうわけわかんなくなってるとも思う。僕らっていうとあれかもだけど、たとえば「お金持ちになる!」とか「社会的に成功する!」とか「有名になる!」みたいなことがいかに虚しいことかというのを実感した先だと、追い求めるのが「幸せ」しか残っていない。というか、この追い求めるって観点から「幸せ」を「目的」に置いてることになって、それ自体やめた方が良くね?って話だと思うんだけども。


何でしたっけ?
「目標」や「目的」を置くことが、善か悪かみたいな話?
そもそもこの二項対立自体が間違ってて、「目標」「目的」をうまく使う方法は?ぐらいが良い問いな気がする。

今のところ、『晴耕雨読な理想の暮らし』と『メンバーシップ1000人の目標』の両方を持っている方が心地よいのでそれを実験中。
下記の本とか読んでる人いたら話してみたいな。


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◻️どんなメンバーシップ? いつも頭の中がうるさい僕が、そのことを誤魔化すために、弁護士になったり、…

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