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あれからもう12年。住宅メーカーに勤めていた私の3.11体験記 

こんばんは、「住まいとお金のコンサルタント」くみょんです。
今日は3月6日。この季節になるとテレビのニュースで「東日本大震災」の特集が組まれることが多くなります。

あれから、もう12年。忘れないためにも私の体験記を残しておきます。

✅あの日、私は東京で面接中だった

2011年3月11日、私は早朝から東京に出張していました。朝一番の新幹線で浜松から上京し、品川のホテルで新卒採用面接をしていたのです。私は当時住宅メーカーの本社に勤めていたので、面接官ではなく受付などの雑用と、「選考結果をその日のうちに浜松まで持ち帰る」という役割がありました。

1時間に一度程度学生が来るので、名前を確認し簡単なアンケートみたいなものを書いてもらい面接官のいる部屋に案内をする。確か面接官は2人1組で4部屋くらいあったと思います。面接官をしていたのは、実際の現場で働く店長クラスの営業社員や、リーダクラスの設計課、工事課社員でした。

午後14時46分、すべての部屋で面接が進行しているときにものすごい揺れを感じました。面接官が部屋から出てきて「これはひどい」「大丈夫か」など言い合いながら、少し様子を見た後、学生を連れてとりあえずホテルの1階のロビーまで下りていきました。ロビーはすでに人が集まってきており、テレビではあの津波のシーンが流れていました。その映像を初めてみた瞬間のことは今でもよく覚えています。

私があの時ホテルにいたことは幸運だったと思います。携帯電話は混線してまったくつながりませんでいたが、ロビーには公衆電話もあり、長い列が短くなったころ、実家の母に電話をしました。母があまりに冷静で、「会社の人たちと一緒なら安心だね」と言ったことに拍子抜けしました。

その後学生たちを家に帰し、(実際は電車はすべて止まっていた)私たちは、何時間かロビーで情報収集や本社との連絡を取ろうと努力した後、駅の方へ向かいました。コンビニは開いていましたがもうほとんど商品は残っていませんでした。面接官のうちの数人は歩いて帰ると言って別れました。この日、多くの人が歩いて帰路についていたと思います。

わたしたちは、品川駅の近くで居酒屋を見つけ入りました。こんな状況でも営業していて、確か「ガスは使えない」と聞いたような気がします。想像もしなかった大きな災害が起こって、帰るのをあきらめて、居酒屋で飲んでいる状況はとても不思議な光景で、何杯ビールを飲んでも酔っぱらえませんでした。
たまに本社から連絡があり、「泊まれるホテルを探している」と言われましたが、私は「こんな日に無理だろう」とあきらめていました。

✅ホテルの会議室で毛布を片手に雑魚寝

結局、ホテルは見つからず本社からの連絡も途絶え、わたしたちは寒空の下歩いて面接会場のホテルに戻りました。すると、大きな会議室を開放しているとのこと。毛布が置かれており、ペットボトルの水も用意されていました。ホテルの計らいに心から感謝しました。

絨毯敷の会議室で横になり、毛布を被って雑魚寝をしました。1~2時間くらいは眠れたように思います。会議室にはテレビはなく、今被災地がどうなっているのか、分からないまま眠りに尽きました。

翌朝、東海道新幹線は動いていたので、私は無事帰路につくことができました。

✅「住まいは命を守るもの」という使命感

私の勤めていた住宅メーカーは全国で建築を行っていたので、もちろん東北地方にも多くの物件がありました。震災からの一週間は、本社全体が対応に追われバタバタとしており、当時の社長は24時間体制で会社に詰めていました。

命を守るはずの家が、津波で流されたり、倒壊したり、目を覆いたくなるような惨状がありました。私は実際に被災したわけではありませんが、住宅メーカーという組織の中で、「地震に強い家づくり」の重要性を強く感じました。「住まいは命を守るもの」その家づくりに携わっていることの使命感みたいなものを感じました。また、「住宅をどこに建てるか」ということの大切さも思い知った出来事でした。

あれから、12年。みなさんは当時どんなことを感じていたのでしょうか。

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