「僕が痴漢に遭った」という話
※このテキストには電車内での痴漢の描写があります
14歳の時、僕は痴漢に遭った。
中学2年生の時。
「昨日のことのように」とまではいかないが、「三日前の事のように」くらいはハッキリと覚えている。
当時、思春期まっさかりだった僕は、映画館に一人で行くことが、とてもカッコいいと思っていた。かつてあった渋谷の「シネマライズ」という単館シアターで映画「ピンポン」を観た経験に味をしめ、渋谷という街に魅了されていた。背伸びしてカッコいい文化に触れたいという要求の塊のような中二だった。
開校記念日の平日の午前、1人でシネマライズに行こうと、田園都市線に乗った。黒い7分丈のカーゴパンツを履いて、赤っぽい色のセーターを着ていた。最寄りの駅から、3号車の車両に乗った。
今思うと、一本後の各駅停車に乗れば良かった…
電車内は結構満員だった。でも、田園都市線名物「宙に浮くレベル」の混みではない。ちゃんと両足で立てるレベルだった。
乗ってすぐ、僕の股間に手が当たっていると気が付いた。
「当たっちゃってるのかな」と思った。
だけど、段々とサワサワしてきて、明らかに性器をソフトタッチしているな…と理解した。
「え…どうしよう…マジか…え…えー?」と頭がパニック状態になった。
心臓がドクドクして、全身汗がブワッと出た。
よりによって急行に乗ってしまったので、電車が中々止まらない。
声を上げて何かヤバいことになったらどうしよう。
「最悪殺されるんじゃないか…?」とまで思ってしまった。
そもそも、混んでいてどこのどいつが犯人かも分からない…。
このままじっと耐えるわけにはいかないので、満員の中むりやり体を反転させ、前方にいると思われる犯人に背を向けた。
「よし…これで触れないだろう…」と思ったら、今度は尻を触ってきた。
しかもさっきより強めに。その時の絶望感は今思い出しても涙が出そうだ。
その時点で、「もう耐えるしかない」、と気持ちを切り替えた。
急行が停まる渋谷の手前、三軒茶屋の駅が近づいていた。
ほんの5分くらいの出来事だけど、人生トップクラスで長く感じられた5分だった。
目的地は渋谷だったけど、迷わず三軒茶屋で降りた。
ホームに押し出されて振り返ると、スーツ姿の痩せた犯人が、青白い顔に笑みを浮かべて僕の方をじーっと見ていた。
「犯人もホームに降りたらどうしよう。俺死ぬのかな…。」と思った。
幸い、犯人は降りてこず、ドアがしっかりと閉まるのだけ確認して、僕はホームのベンチに座り込んだ。
全身脱力してしばらく動けなかった。
だけど映画の上映時間が迫っている。僕は次の各駅停車に乗った。
「1人で渋谷に映画を観に行く」というカッコよさに浸っていた14歳の自尊心は、粉々に砕け散っていたけどね。
以上が、「僕が痴漢に遭った」という話で、これは居酒屋などで僕が披露する話ネタになっている。
多くの女性が痴漢の被害や、直接被害はなくともその脅威におびえる、といった話をするたびに、「分かるよ~。俺も痴漢に遭ったことあるから」と衒いもなく話している。
なぜこの「僕が痴漢に遭った」という話を書こうかと思ったかというと、現在渋谷のシネクイントホワイトで上映中の映画「82年生まれキム・ジヨン」を観たからだ。
僕と妻は原作小説にとても影響を受け、夫婦関係を改革してくれた作品だったので、2人で観てきた。(素晴らしい映画。ぜひ男女問わず観てほしい)
ものすっごく色んな事を考えさせられているので、しばらく文章化までの整理が追い付かないのだけど、「痴漢」の話は、比較的容易に整理がついたので、まずはそこから書いてみようと思った。
渋谷の「シネクイントホワイト」は、新しくなった渋谷パルコの8階にある。そのパルコの向かいには、かつて僕が通った「シネマライズ」の建物が、今もある。僕はここに訪れようとして、痴漢に遭ったんだなぁと思いだしたのだ。
映画「キムジヨン」には、主人公のジヨンが性被害に遭遇するシーンがある。塾からの帰り、バスに乗っていると…というシチュエーション。ネタバレになるので詳細は省くが、ある親切な“気づき”によって、ジヨンは最悪の事態を免れる。それでも、緊張状態から解かれた彼女は、地面にヘタヘタと倒れこみ、涙を流す。
それを観た僕は、「あぁ…分かるよ…。俺も三茶の駅のホームでヘタヘタ…と脱力したときのことを思い出すよ…」と勝手にシンパシーを抱いたのだが、その後、被害に遭ったジヨンに投げかけられる父親の言葉に、「はっ!」とさせられた。
自分に対する重大な疑念に気が付いた。
「なんで俺は自分の痴漢被害を、ネタにしてペラペラ話せるのだろうか」
答えは、「僕が“男性”だから」だ。
僕にとって、14歳の時の痴漢体験は、人生におけるひとつの『点』に過ぎない。珍しい体験の類として、思い出に刻まれた出来事。もちろんショックだったし、傷ついたが、すぐ気持ちを切り替えてその日映画を見に行ったし、痴漢体験を引きずっている感覚はない。
(もちろん何かしらの影響は今も残っているかもしれないが自覚はない)
でも女性にとって痴漢被害は点ではなく『線』であり、ずっと付きまとう脅威だ。30代の僕が、今後痴漢被害に遭遇する確率は限りなくゼロに近い。同年代の女性のリスクは、その数十倍、数百倍、いや数千倍かもしれない。僕よりも、毎日電車に乗る僕の妻が痴漢に遭う確率の方が、ずっと高いだろう。
なのに、「分かるよ~、実は俺も痴漢に遭ったことがあってさ…」なんて笑いながら話すことは、いくら僕が被害者だといえ、許されることではない。別に被害を話すこと自体は良いと思うけど、「分かるよ~」はダメだった。
痴漢が直接的にもたらす恐怖は共有できるけど、「いつ痴漢に遭うか分からない」という恐怖は、僕は体験していない。
「キム・ジヨン」には、原作小説にも映画とほぼ同じ性被害の描写がある。
しかし、小説を読んだときには、僕は自身の痴漢体験を思い出さなかった。今回映画版で思い出したのは、パルコという立地のせいなのか、別の要因なのか。でもとにかく気が付けたことは良かった。
「僕が痴漢に遭った」という話。
それを女性の共感を得る目的で話すことだけは、今後絶対にしないように。
自戒の念を込めて。
ちなみに、痴漢をこの世から減らしていくためには、もちろん刑罰も必要。だけど、累犯性が高いので、「治療」をしなければ、痴漢は減らない。
それは、「キムジヨン」の中で描かれたストーカー行為にも、一定程度当てはまる。
犯人に対するカウンセリング、本質的な治療を行わないと、実際の被害は減らない。そのことは徐々に浸透しているが、医療機関や警察、司法機関等の連携が大切で、いかに犯人と治療をつなげるシステムを作るかが、被害を減らせるかどうかにかかっている。
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