噛み締める日常という味
私が印象深く記憶に残っているごはんは、デニーズというファミリーレストランの期間限定のメニューであった鯵の丼だ。
その年、今から3年ほど前のこと。母が乳腺外科に行き生検を受けることとなった。というのも、胸の痛みがあり本人が自らの意思で受診した結果、一度生検を受けた方がいいということにまとまったらしい。
私はまだ二十代後半に差し掛かる頃の年齢で、特別身体のことにさほど興味関心がなかった。それよりも働くことに精一杯で、家族がどういう状況にあるのかを理解することから、ほんの少し距離を取っていたのだとおもう。
向き合う努力を怠っていた。
それは今回のことだけではなく、様々なことにも当て嵌まる。病気であったり、考え方や価値観であったり、そういった個人のことから目を背け自分ばかりを優先してしまっていたのだ。
生検を受けるということは、もしかしたら悪性であるかもしれない。癌かもしれない。その可能性を突きつけられた時、私は初めて、「お母さんがもしかしたらこの世界からいなくなってしまうかもしれないんだ」と感じる事が出来た。
それまでぼんやりと、別段大したことではないのだろうと勝手にたかをくくっていたのに、急激に現実はそうではないことを思い知り、狼狽えるばかりだった。
我が家は一気にどんよりとした陰鬱な空気に包まれた。癌だったらどうしよう。乳がんだったらどうしよう。生検の結果が出るまでの間、私達家族はとても言葉には出来ない恐怖に苛まれていた。
今まで当たり前のように接してきたはずの存在が、もしかすると明日にはいきなり突然消えて会えなくなるのかと想像するだけで、唇を噛んで俯いてしまいたくなった。
生検を受けた日、母と外食をする話になった。というのも、病院から帰ってきて食事の用意をする元気が母になく、また私も作ろうかと提案することも出来なかった。なんとなく、できなかったのだ。
私達はデニーズに向かった。そこでそれぞれが食べたいものを頼んだ。結果はどうなのかと、口には出さなかったが、私達は2人ともあの時見えない結末に怯えて不安になっていたと思う。
その時に、鯵の丼を食べた。何気ない食事。それも思い出の味というわけでもなく、普段の食卓に並んだこともない鯵の丼。生の鯵の旨味が舌の上で広がり、食べているときだけは、恐怖も不安もなく、美味しいなあと思えていた。
結果、母の生検の結果は癌ではなかった。
隅田川の花火大会の中継を見ながら、今年これが見られる最後になるのかもなあ、と弱気なことを吐いていた母。私はそんなことはないと、自己暗示や言い聞かせの意味もあったろうが懸命に否定した。
まだ、一緒にテレビを見て花火の綺麗な様をいいねえと言い合っていたいのだ。
あれ以降、デニーズで鯵の丼は食べていない。夏場にもしもまた鯵の丼のメニューがあったら、私は多分注文して、美味しさを噛み締めるのだと思う。
家族が側にあることの当然さは、決して当然などではない。健康でいられるという日常の有難みを忘れることなく、暮らしを営んでいきたい。そう思う。
母は今年も無事に誕生日を迎えた。
今年は一緒に花火大会の中継を見られるのだろうか。みられるとうれしいな、そう、考えながら、私は今干し芋を食べている。
ほんのり甘くておいしくて、ふとした小さな喜びを、たんと噛み締められるから。