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ボケの最初の兆候が現れたのは、皮肉にも芸術功労賞のスピーチの最中だった。老人は黒い角棒とガウンを身にまとい、講演先の母校で若者たちを鼓舞していた。
スピーチにおかしな言動が見られたわけではない。聴衆はむしろ、老人の学識豊かな演説に惹き込まれていた。気になるところといえば、講演時間を大幅に延長していることぐらいか。しかし演説に熱が入れば、時間を超過してしまうのも珍しくはあるまい。
壇上に立つ聡明な老人に、疑いの眼を向けるものなどいなかった。文学者として名を馳せた彼は、人類の叡智にもっとも近づいた存在に思われた。
だが、ボケの二文字は体内を確実に侵蝕していた。同じ言葉を何度も繰り返す。認知症の典型的な症状が、このときすでに始まっていたのである。尋常ではなく講演が長くなっているのも、このためだった。
もっともこの時点ではまだ、言葉のくり返しは違和感を持たれていない。強調表現として聴衆には受け入れられている。
とはいえ老人は、ほどなくして、日常生活においても執拗に言葉をくり返すことになるだろう。一個の質問に対して、七度も八度も同じ返事をするだろう。
一方で数分前の出来事を忘れ、知人友人を忘れ、自身が高名な文学者であった事実さえも忘れてしまうだろう。
丹羽文雄。日露戦争の年に生まれたこの文豪は、二十代のときに新進作家として文壇に上がり、膨大な量の文章を世間に発表した。半世紀に及ぶ作家生活は、おおむね順風満帆だった。
ただし、小説家としての根幹を揺るがす困難が、晩年には待っていた。昭和末期(1987年)、早稲田大学での講演中に最初の症候が現れて以来、認知症との格闘を強いられたのである。
その期間は、約二十年にも及んだ。
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丹羽の認知症は、いわゆるまだらボケ型だった。意識の鮮明な期間と、朦朧とする期間が不規則に訪れる。傍目から見れば異常が見えにくく、発見が遅れやすい。
しかし症状は、着実に進行していく。日を追うごとに文章も書けなくなる。筆を執ったところで、まず話がまとめられなくなる。一時的なスランプかと作家は考えるが、決してそうではない。
次に段落の境目がわからなくなる。一文の作成がおぼつかなくなり、やがては単語すら思い出せなくなる。気づいたときには、小説を書く行為そのものが、頭のなかから消え去っている。
作家であることを忘れた丹羽の様子は、介護に献身した娘の手記に詳しい。
ひとりの作家が全生涯を賭して挑んだ文学を、ボケはたやすく洗い流してしまう。いくら智慧を積み重ね、技術を磨こうとも、最期には蒸発してしまう無常さを、丹羽の晩年はわたしたちに伝える。
しかも、ボケはただ無慈悲に、知識を奪うだけではない。気まぐれに、過去の記憶を蘇らせるのである。だから丹羽は、かろうじて記憶の片隅に残っていた、たった一つの単語を書き連ねることになる。
この行動を、どのように解釈するべきだろうか。
薄らいでいく意識のなかで、それでも何かを伝えようと、必死の表現を試みていたのだろうか。それとも、作家として長年続けてきた、執筆というルーティンを機械的に再現していただけなのか。
きっと丹羽自身も、真意のわからないまま動いていただろう。
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ところで、丹羽文雄の短編小説の一つに、「厭がらせの年齢」がある。戦後まもない頃(1947年)、丹羽が認知症を発症する四十年も昔に執筆した作品だ。
この作品は、認知症の老人と介護の問題を取り上げているのが先駆的だった。老人介護を取り扱った小説は、一般的には、有吉佐和子の『恍惚の人』(1972)がその草分けだと言われている。しかし丹羽は、それより四半世紀も早くに、社会問題として提起していた。
丹羽はこの小説で、介護に疲弊しきった家族の「毒」を、余すことなく描き出している。叙述の大半が、老いた祖母に対する家族の恨み言で占められているのである。
老人の尊厳を踏みにじったこの発言を、非難するのはたやすい。だが、毒を吐く家族を罰したところで、根本的な解決には至らないだろう。
なにせ家族は、祖母から「厭がらせ」を受けていると感じている。被害者はむしろ自分たちの方だと考えているのだ。
たとえば祖母は、事あるごとに家族の衣服を盗んでは別の場所に隠す。夜になると徘徊して騒ぎ立てる。食糧難のなか、日に六度の食事を要求し、食べている傍から粗相をする。家の外では理性的にふるまい、家族から冷遇される不幸な老人を演じる。
祖母の言動は、仕方がない部分もある。一方で、悪意でもって家族を困らせている節もある。
祖母の意識は常に曖昧だ。この曖昧さゆえに家族は責任を追及できず、「厭がらせ」に耐えるしかない。
介護する家族も初めから鬼だったわけではなく、祖母を大事にしていたし、思いやろうとしていた。それだけに、老人を呪詛する家族の態度は、胸が痛い。
ちなみに作中では、介護に苦しむ家族の口から、老人ホームの設置を急ぐべきだという、かなり先進的な意見が飛び出している。
老人福祉法が制定され、今の形の老人擁護施設が作られるのは1960年代に入ってからだった。「厭がらせの年齢」は、十数年先の国の方針を、また現代にまで続く介護問題を先取りしていたことが分かる。
◇
老いた丹羽文雄は、薄らいでいく意識のなかで、何を思っていたのだろう。
もしかしたら、四十年前に書いた「厭がらせの年齢」を、思い出していたのかもしれない。そしてこの小説の最後で、老婆が死を選ぼうとしていたことに気づき、心を凍らせていたかもしれない。
家族を迫害し、また迫害されてきた祖母(うめ女)は、若くして亡くした娘の遺影を見て我に立ち返る。健やかだった頃の記憶が呼び起こされ、声をあげてむせび泣く。だが涙は出ない。身体的な衰えは涙腺をも枯らしていた。
絶望の淵に立たされた祖母は、箪笥から盗んできた孫の下着のゴム紐を引き抜こうとする。この先は描かれていないが、首をくくろうと考えたのだろう。
しかし自殺が成功するとは思えない。老人に事をなすだけの体力はなく、何よりゴム紐を持ち出したのは今日が初めてではなかった。家族の私物を日常的に盗んでいたのは、首を吊る紐を探すためだったと、ここで明かされる。
老人は正気に戻るごとに死を望む。ただしそれは叶えられない。そうして死にきれないうちに、朦朧とした意識のなかへと沈んでいく。次に正気に戻って、再び自殺願望が芽生えるその時まで。
「厭がらせの年齢」とは、家庭を困らせる年寄りを指している。これと同時に、死にたくても死ねない寿命のことも、「厭がらせの年齢」と呼んでいたのだった。何重にも哀れで、酷たらしい幕引きである。
ボケた丹羽の頭に、自らが生み出したこの苛烈な小説は、どのように映るのだろう。よく吟味することなく、他の思い出とともに忘れさるだけなのか。あるいは、残された想像力で老婆と自分を重ね合わせて、複雑な情動に身をやつしたのか。
丹羽が自身のことを「厭がらせの年齢」などと考えずに、天寿をまっとうできたと願いたい。だが、確かなことは何も言えない。きっと丹羽と同じ立場に立って、何十年も過ごしてみなければわからないのだろう。
ただ一つ、丹羽について想像を巡らせる余地があるとすれば、上に紹介した一個の文章についてである。
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この文章から連想するのは、寺山修司の『家出のすすめ』だ。寺山は少年時、春本を読んだ際に意味のわからなかった隠語を、母親ハツの名前に置き換えて読み進めたと独白する。
「さすがのハツに馴れたハツも思わず『ハツ!』と熱い息をはいて、すぐにハツをハツしてハツハツとハツするハツにグイグイとハツハツ ハツ ハツハツハツ・・・・」
だが丹羽の文章は、それ以上に徹底している。しかも寺山のように修辞的な意図をこめず、素の状態で自分の名前を書き綴ったのだ。
もちろんこの文章に、丹羽による署名以上の意味はない。ないはずだ。
だが、老いて認知症を患った文豪と、認知症を患った老婆に関する壮絶な小説、この二つの文脈を押さえた上で、改めて丹羽文雄という語の反復を見直すと、息の詰まるような圧迫感がある。
差し迫った人間の発した、言葉を越えた言葉、表現を越えた表現が、そこに刻まれているような気がしてくる。
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丹羽の文章は壊れている。それは確かである。ところが、真の意味で丹羽と同じ文字を書くことは、誰にもできない。その筆跡には、百年に及ぶ彼の血と人生が混ざっている。
智慧も技術も記憶も、小説家としての矜持さえも喪ってしまった、それでも一人の老人が確かに生きたことを示す痕跡。それが晩年の丹羽が遺した文字列の正体であろう。
わからない。その意図は何もわからない。だが彼の文章のなかにこそ、文学と呼ばれるに値する何かが含まれているのではないか。
わたしはそう直観している。
参考文献
『丹羽文雄文学全集 第3巻』講談社、1974。
本田圭子『父・丹羽文雄介護の日々』中央公論社、1997。
寺山修司『家出のすすめ』角川文庫、1990。
サムネイル画像:「親鸞聖人、築地本願寺外観」https://photosku.com/photo/4042/