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#首塚へ行った話
#たたりの伝説
築土神社や 神田神社同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが 入り混じった崇敬を受け続けてきた。
この地に対して 不敬な行為に及べば 祟りがあるという 伝承が出来た。
1923年(大正12年)の関東大震災後に 都市再開発(復興計画)として 大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大蔵大臣(第1次若槻内閣)・早速整爾の相次ぐ不審死が 起こったことで、将門の祟りが省内で 噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため 仮庁舎を取り壊して 鎮魂碑を立てた。
1928年(昭和3年)3月には 大蔵省が主催して 鎮魂祭を行っている。
しかし、早速が大蔵大臣に就任、それから程なくして 亡くなったのは 仮庁舎建設の3年後の1926年(大正15年)であり、仮庁舎建設には 関わっていない。
また、工事部長だった矢橋賢吉が 死亡したのは建設から 4年後の1927年(昭和2年)である。
さらに、大蔵省庁舎が落雷による火災で焼失したのは、17年後の1940年(昭和15年)の事であり、この日都内では 20ヶ所で落雷していて、航空局に落雷して 発生した火災が 延焼したものであった。
また、第二次世界大戦後に 戦災復興都市計画として、GHQが丸の内・大手町周辺の区画整理にとって 障害となるこの地を撤去・造成しようとした時、不審な事故が相次いだため、計画を取り止めた。
アメリカ軍のブルドーザーが 作業中に横転し、運転手が投げ出されて死亡。
それまでも 事故があり 日本人の労務者に 怪我人が出ていたので 付近を調査したところ、転覆した ブルドーザーの前に 半分埋まっている 墓のようなものが 見つかり大騒ぎとなった。
当時町内会長であった 遠藤政蔵により、将門の首塚の碑で あることが判明し、GHQ当局に 陳情を重ねた結果、塚の取り壊しが 中止された。
それらの結果、大手町周辺が 高層ビル街へと発展する過程においても、首塚は取り壊しや 移転を免れて 残ることとなり、現在でも毎日、香華の絶えない程の 崇敬ぶりを示しており、近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を 行っている。
#将門塚
十年前に なるか。
平将門の首塚が、目と鼻の先の職場で 働いてたことがあり、言わずもがな、自然と 首塚の話が 入ってきた。
うわさレベルで 上記のことも把握しており、
行くか行かぬか、
相当悩んだ。
行かない後悔より、行った後悔の方が 良いだろうと決断、
仕事の先か後か、忘れたが、訪れた。
しかも、一人だったので、今までの どんなことより 恐る恐る の 体験だったが、特に 何も起こらず、少し 気が晴れた 記憶がある。
そう、行って良かったのだ。
#これから
#シークエンスはやとも が、怨霊に取り憑かれ、どうしようもない時に、首塚に訪れる。
また、千葉県は、茨城県に近いからか、将門公の史跡が 結構多い。
とあり、機会をみては、訪れていこうと 考えている。
このような 史跡に行くことは、必ず良い方向へ向かうと信じて。
最後まで お読みいただき
ありがとう ございました。