2020年3月〜10月の観劇
去年の今頃は今年がこんな世の中になるなんて思っても居なかったし、今年もわたしの貯金はカツカツで、その代わりにまたたくさんのエンタメを自分の中に吸収していくんだろうなと思っていた。
今年の3月、少し後ろめたく思いながら観に行ったホイッスル・ダウン・ザ・ウインド。
白井晃さんの演出を楽しみに、そして矢田悠祐さん目当てで。
三浦春馬さんが今まで見たことのない役柄、そして境地に居るな、と感じたし、声も姿も表現も、テレビで知る彼とはどうしても一致せず『役者』だなあと思い知らされ、ミュージカルでの今後の活躍に期待を寄せた。
しかし悲劇が起こり、それを観ることは叶わないものとなってしまった。
矢田さんの役柄は、オープニングの父親、劇中のバーに足を運んだ未成年、そしてメインの役の蛇使いの集団のひとり。
蛇使いの集団は戦隊ものの悪役の様で、藤田玲さんの役が親玉で、矢田さんの役はその女幹部の様に見えた。(背丈の違いとか顔の美しさとか)
歌は当然ながらどの方も上手いし耳にすとんと入ってくる音楽で、話もとてもわかりやすく、クリスマスの時期にもう一度観れたらいいなと思う舞台だった。
それから次の劇場での観劇まではずいぶんと開くこととなる。
その間に取っていたチケットの返金があったり、給付金の支給があったり、家から出られなくなったりと、急にお金が通帳に残ってしまうこととなった。
財布は潤ったが心は急にスカスカになって、いつもなら取り留めもなく文章を綴っているのに、ひとことも文字が浮かんでこないことに焦りを覚えた。
こんな事態は働き始めてから初めてで、とりあえずエンターテインメント業界に寄付したりクラウドファウンディングに協力したりとしてみたりしたし、空いてしまった心への栄養分として、劇場へ行けない分今まで観れていなかった舞台の配信を観たりした。
とはいえ、家で観るのと、劇場で観るのとでは何もかもが違う、と改めて思い知らされたのは、舞台の幕がようやく開けてきて、観劇へ足を運んだ時。
Defiled。これも矢田さんを観ようと行った舞台だった。
初めはまだ劇場へ脚を運ぶのにも少し躊躇があったので、配信で観た。
この作品をVRで配信するなんて、皮肉な演出だなあと思わされたし、正直VRは舞台にはまだ早いなという気がした。観る時間、環境によってどうしても重たくなるし、ライブ配信のみで、アーカイブで好きな時間に観ることが出来なければサーバも重たくて映像が劣化したり音ズレも発生して、購入者が満足のできる配信が出来ているかといえばそうでなかったと思う。
だからこそ、結果配信を見終わり、どうしても生で見たい、といても経ってもいられずチケットを購入していた。
劇場へ足を運んで、初めて後ろが本棚でそこにダイナマイトが仕掛けられていることに気がついてゾッとした。映像では暗転の中に赤いライトが後ろで点滅しているということしかわからなかったが、それがハリーの仕掛けたダイナマイトの光だったことに気づけたのが、劇場へ入った時だった。
矢田さんの演じるハリーは衝動と悲哀と苛立ちに満ちていて、朗読劇とはいえ、久しぶりにその演技を観て身体の内側に汗を掻く様な心地になった。
「ちくしょう、テクノロジーめ」
というハリーの台詞で物語は終わるが、その台詞、そして矢田さんの瞳の中に込められた怒りが焼き付いた。
何人かの役者とペアが同じ演目で演じていたから、他の役者、他のペアも観て見たかったけれど、日や時間が合わず結局矢田さんのハリーしか観ることが叶わなかった。
個人的には前山さんのハリーもとても観てみたかった。
それから間を開けずに、ジャージー・ボーイズコンサート。
帝国劇場の煌びやかさに高鳴る胸を感じたり、久々に活気とワクワクに包まれているお客さんや客席を見て、『エンターテインメントを観にきているんだな』と懐かしい気持ちが蘇った。
歌が上手いし、豪華で、観ても聞いても本当にハッピーになるし楽しかった。演目も観てみたかったし、観れる機会がいずれあることを願ってやまない。
次がNostalgic Wonderland♪。
ここで久々に、目一杯にお洒落した女の子たちを見て、『現場に戻ってきた!』と雷に打たれた。
夏だったので、オフショルのワンピを着た女の子や、黒レースの可愛いワンピと合わせた黒レースのマスクを着けている子、会場前で指ハートを作って写真を撮る子たち、Maison de FLEURのトート。
誰とも知り合いではないし、わたしは彼女たちの年を過ぎた女だけど、無性に「みんな久しぶり〜!」と話しかけたい気持ちになってしまった。それくらいこんな『現場』は久しぶり過ぎた。
みんな『推し』を自分が一番可愛い姿で観たい! という気持ちでここに来ているんだなあ。と改めてしみじみと思いながらまた現場に来れた嬉しい気持ちで客席を見ていた。
舞台はそれぞれ得意なものが違う役者が集まっていて、歌、ダンス、トークとリラックスしながら楽しく観た。
矢田さんがコンマスみたいな役割をしていたけれど、ソロ曲にはその説得力があって、納得してしまった。
そして、アルジャーノンに花束を。
昔、まだ学生だった頃に小説を読もうとして、あまりにも辛くて挫折した作品。
告知があってから改めて読んだけれど、素晴らしい作品だった分やはり辛かった。
辛さで耐えられないなと思ったのでとりあえず3回観ることにしたのだけれど、1回目がまさかの最前で、辛くてしんどい、しかし歌が上手い! 顔が綺麗! 悲しい……と情緒がめちゃくちゃになって1回目を終えた。
最前列はフェイスシールド着用必須で、初めてフェイスシールドを着けたけれど、マスクから漏れる呼気で曇ったりもせず、とてもクリアに見えてよかった。ただ頭が締め付けられるので苦手な人は注意が必要かもしれない。
あと泣いた時にハンカチを潜り込ませるのが、付けていないときより難しいので涙は全部マスクに吸収される。
今回を含め、もう再演を4度されている作品なだけあって、その日の幕間には前々から見ていたお客さん同士が「前と違って……」「ああ! 歌詞が読みたい!」と興奮気味に話していたり、座席で一生懸命歌詞をノートに書き留めるお客さんを見て、じわじわと『『ここ』に戻ってきたんだなあ』という気持ちになったりした。
今こんな状況になって、演劇を観るという環境にも色々選択肢が増えたけれど、配信で観ていても家の中ではやっぱり劇場の没入感や雰囲気は得られていなかったことに、アルジャーノンに3度通ったことで気付かされ、改めて劇場という場所がくれる没入感の必要性を感じた。
そんなアルジャーノンの感想と少しの考察を綴る。
オープニングのチャーリィの眩しいほどの純粋さと心の美しさが眩しくて、『かしこくなりたい』は3回目でより染み入り、つい泣いてしまった。
それからチャーリィが手術を受けたあとの、大月さゆさんの、看護師ヒルダの歌が素晴らしい。母性と慈愛に満ちた歌声と振る舞い。大月さんはこの後、チャーリィの母ローズとして辛い仕打ちと辛い気持ちを抱えながら生きていかねばならないので、ここで唯一慈愛を込めた母性の表現をみることが出来ることが、その後演じるローズの抱えていた、チャーリィへ優しくしたかった思いのようなものが垣間見えた気がしていたシーンだった。
その後見舞いに来たアリスに、チャーリィが「かしこくなったら、おとうさんとおかあさんにもあえるかな」と言うシーンは毎回泣かされた。
結末を知っているから、ではなく、チャーリィが純粋に『おとうさんとおかあさんに会いたい』という思いでそう言っていることがわかったから、泣いてしまった。このシーンはいつもチャーリィが手術を受けて、これから起こる自分への変化に期待して、一番希望に煌めいているシーンだったと思うし、ここで出てくる天井に煌く木漏れ日の照明がまた未来が明るいように感じさせてくれて、実際起こることとの剥離に泣けた。
それから、チャーリィに変化が起こり始めて成長するのを一曲で一気に見せられる。この変化が凄まじくて毎回息を呑んだ。
一挙一動、一言でチャーリィは変化する。知能指数が上がっているのが話したり、動くだけでわかる。矢田さんの演技をただ脱帽して見つめていた。(わたしはこのシーンでチャーリィが「ばっからしい!」と怒るのがとても可愛くて好きだった。)
チャーリィの知能指数が上がるごとに、その衣装も変わる。
オーバーオール→ネルシャツ→ベスト→ジャケット→ネクタイ
ここまででチャーリィが知能指数を極めたことを表していた。
ただ、チャーリィのジャケットの襟のパイピングは片方にしかなくて、それはお洒落でもあったけれど、わたしにはそれがチャーリィの知能が『本物』ではないという表現でもあるのかなと思えた。
なぜなら、他の人々の衣装のパイピングは、全てシンメトリーにつけられていたから。
緻密で美しくて、そして残酷な衣装だなと思う。
そして知能指数がピークに達した辺りのチャーリィが、ストラウス博士に「ラハジャマティーを知らないのか!」と詰め寄るところで、アルジャーノンの動きに変化が出てきたことを表現している、アルジャーノン役の長澤風海さんを見て、心臓が凍るようだった。悲劇が起こる前触れの、一瞬。
それから怒りの曲と、檻の外へ。
個人的に矢田さんはやはり怒りや冷たさの演技や強い歌がすこぶる似合うな、と思っているけれど、やはり今回もそう思う。矢田さんの美しさと強さが怒りに良く映える。
アルジャーノンを観て、わたしはなぜ荻田さんが矢田さんに『ハムレット』を作ったのかわかった気がした。上記の通り、矢田さんは怒りが強く美しいからだろうなと感じた。
アルジャーノンの風海さんも、荻田さんが「殺人バレエ」と評していたけれど本当に脚力が物凄くて、しなやかで美しいけれどそれを上回ってあまりにも強い。
強さが芯にあるふたりだからこそ、チャーリィとアルジャーノンのペアとしてしっくり来ていた。
では最初の浦井健治さんと森新吾さんのときは『何が』だったんだろう、と初演も再演も観てみたかったな、と思ってしまった。
2幕が開け、フェイとの生活が始まる。
リロイのシーンは毎回笑ってしまったし、フェイの「あなたのヌードを描くの! きっとミケランジェロのダビデ像みたいになるわ〜!」という台詞は『そうだなあ……』と思いながら聞いていた。(余談だけど、ロンドンナショナルギャラリー展に行った際、レンブラントの絵を観て『矢田さんだな……』と思ったのだった)
チャーリィの記憶にはっきりと現れてくる両親、そして妹。
大月さんのローズがチャーリィを叩くときの手先の震えと葛藤の表情がなんとも言えず、愛したいのに愛せない、憎しみと悲しさが表現されていて辛い気持ちになった。
チャーリィがフェイとの一線を越えるとき、自分の心に棲むチャーリィを見つめる、蔑んだ表情がゾッとするくらい美しかった。(舞台写真が販売された際それも入っていて解釈の一致に喜んだ)
そしてチャーリィは、アルジャーノンがミニィを殺したことで、檻の中へ戻る決断をし、アリスとも向き合う。
アリスは終始チャーリィを、先生として、姉として、母として、そしてチャーリィを愛する者として見つめていた。
アリスはチャーリィの知能や成長を、階段に喩えた歌詞だったのも印象的だった。術前は「下りのエスカレーターを昇るような」と覚えてもすぐ忘れてしまうチャーリィの知能を説明して、チャーリィも「アリスと一緒にステップを昇る」と歌い、アリスはチャーリィの知能が上がるスピードを「階段を一段登るたびに見晴らしが良くなって、景色が変わる」と喩えていた。
だからこそ、チャーリィはフェイを「非常階段」と歌っていたのだなあと思う。
術前はただの『先生』だったけれど、ドナーズベーカリーの人々からの愛は、愛玩だったと思ってしまった術後のチャーリィにとっては、アリスこそが唯一の愛で、全てだったんだろうと思う。
何故なら、手術を受けた彼の手からは、ドナーズベーカリーも、家族も、全てがこぼれ落ちてしまったから。そしてアリスはそれを知っていて、チャーリィのそばにいたから。
アリスがこの時に「忘れるよう努力する」と言ったのは、チャーリィそのもののことではなくて、自分が見守ってきた、術後のチャーリィのことだったんだろうと思う。もちろんきっと忘れられないけれど、消えてゆくチャーリィに、未練が残らないように。
矢田さんもひと一人を生き抜くから重たく辛いと思うけれど、アリスの水夏希さんも人ひとりを育て、愛し、教師、姉、母全て担ってチャーリィを見守り、支え、看取るから、本当に毎回引き裂かれる思いでつらいだろうな、といつも思った。
チャーリィの知能が下がっていく演技も、また凄まじかった。
論文、が出てこない詰まりや、ヒンドゥー語を言えず、インドの本、と言ってしまう苛立ちが、悲壮感を煽っていて、観る方も非常にもどかしく辛い気持ちになった。
そして、チャーリィの衣装も、ネクタイを外し→ベスト、と変化し、戸井勝海さんの重厚な宇宙の歌の揺蕩う中、アリスの腕に包まれて、チャーリィはその体を、術前のチャーリィに明け渡した。
それからチャーリィはまた、元のチャーリィに戻る。
アリスが「かしこくなったチャーリイが失ったものは笑顔」「ひとから笑われて自分も笑うことで愛されていた。たったひとつの権利だった」と言った時、なんとも言えない辛さと寂しさが胸の中を満たされた。
賢くなったチャーリィだって、もちろん笑いたかっただろうけど、笑えない真実や、記憶の方が多く、更に賢くなることで、情緒面が知能に追いつかなかったことが彼がそう出来なかった要因なのにな、と感じてしまった。
でも、チャーリィが「かしこくなってたのしかったきがする」と言った時、賢かったチャーリィも、辛いばかりではなく楽しかったことが間違いなくあったし、その記憶は今のチャーリィに残っているのだな、と思うと泣けてしまった。
幸せな話ではないし、正しい話でもない、登場人物に正義だけがあるわけではない。
どちらかといえば、日常的に存在する、人間の傲慢さや、弱さや、卑怯さ、そして優しさの捻れみたいなものを抉り出して見せつけるような話だと思う。
それでも、観た人の心を打つのは、戒めと感じたり、共感するもの、そしてこれは創作だけれど、人の繋がりの真実が、このストーリーの中にあるからな気がする。
どこに入れ込めば良いかわからなかったけれど、曲の入れ方も非常に良かった。
手術前のチャーリィが歌う、希望の「ぼくがぼくでなくなるとき」と、2幕で絶望したチャーリィが歌う「僕が僕で無くなるとき」同じメロディ同じ歌詞なのに、全く意味の違うシーンで使われる妙! 他にも、手術を受けた後でテストや勉強が嫌になったチャーリィが歌う「かしこくならないしじつをしたのに!」と、アルジャーノンに異変が起きてカゴを抱えるチャーリィが歌う「賢くならない! 手術をしたのに!」も『最高だな……』と思ってしまった。
曲自体難しいと素人耳でも感じるくらい難しいのに、それでも耳触りが良くて歌謡曲っぽく感じるものもあり、かけひき〜の曲のテンポの良さとラストの歌い上げはいつも拍手したくなったし(すぐセリフに繋がるから出来なかったけど)、檻の外への前のアリスの曲は、ちょっと90年代のポップス(大江千里みたいな)雰囲気で素敵で、色々な曲が詰められていてどれも違ってどれも素晴らしかった。
そして、博品館の客席壁のグリーンと、舞台の中央に鎮座していた、回し車(水車)のグリーンが同色なのも、このアルジャーノンに花束を、が博品館からスタートしたんだと感じられて愛だなあと思ってしまった。
そしてこの公演は何より、18日間(休演日2日)29公演という公演数が、本当に凄まじかった。
このご時世で、色々気を使うし、疲労も蓄積するだろうし、みなさん体力的にも、喉だって辛いだろう(風海さんは特に身体的なところも)と思っていたけれど、無事に全公演終了でき、わたしは3度観に行ったけれど、3回目が1番気迫に満ちていて、公演ごとに登り詰めて、研ぎ澄まされて行っているのかもしれないなと思わされた。
9人それぞれ、これがプロフェッショナルだと感じる歌や演技やダンスで、そんな素晴らしい作品を、舞台を観る回数が少なくなってしまった今年観ることが出来たことが、本当に嬉しい。
このコロナ禍の中、無事に全公演終了できたこと、演者たちの素晴らしさはもちろん、劇場、そして制作陣の対策の素晴らしさにも、観客として本当にありがたく思うし、上質なエンターテインメントを安全に提供してくれたことに、感謝しきりだ。
矢田さんは、このアルジャーノンを終えて、次の作品、舞台からの景色がまた少し違って見えるのではないのだろうか。
アリスがチャーリィに言っていたように、矢田さんもまた、ステップを何段も昇ったのだろうと思うし、だからこそ次の舞台、EDGESが楽しみでならない。
12月は、殆ど舞台を観ずに今年を収めてしまう抗いで、色々な舞台を予定に入れている。
それでもまだ給付金分、そして返金分全ては使い切っていないから、きっと配信やグッズもまた買うだろう。
改めてまた、安全に、健康に、そして何より楽しく経済を回し、心に栄養を与えていきたい。
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