色んな人に「○○やったら?なんとなく合いそう」と言われたり言ったりしたお話。
みなさんは今まで、「トライアスロンやったら?」「海を泳ぐレース出たら?」と言われたことはあるだろうか。多分だけど、ほとんどの人は一度もないと思う。私はある。というか数回ある。しかも2〜3年ほど前のある時期に集中して。
当時はトライアスロンもオープンウォータースイム(海や川を泳ぐ競技)もやったことがなかった。ただ、月に一回ほど市民プールで1〜2km泳ぎ、毎日通勤で片道15分ママチャリに乗り、年に一回ランニング大会で4kmだけ(ジョグで25分くらい)走ってるひとだった。元水泳部ということもないし、ロードバイクも持ってないし、トライアスロンをやってみたいなんて全く思ってもなかった。
それにも拘わらず、冒頭のことをいろんな折にいろんな人に言われた。相手は、同僚(複数別々に)、スクールの友達、担当の美容師さん。彼ら彼女ら自身はトライアスリートでもオープンウォータースイマーでもない。ほとんどは、スポーツをする人でさえなかった。ただ会話の中で、「時々、市民プールで泳ぐんですよ〜」「こないだランニング大会で4km走って〜」と言ったら、「へー。海を泳いだら?てか泳いでそう」「トライアスロンとかやらないの?」と、返ってくるのだ。そんなことがあるだろうか。論理が飛躍してないか。ページを読み飛ばした本みたいになってないか。そもそも「トライアスロンやったら?」ってそんなにカジュアルに言うことだろうか。「新しいカフェ行ってみたら?」と同じトーンで言えるのはなぜなのか。提案の重みが違うだろう。絶対めちゃくちゃしんどいし、装備を揃えるのにもお金がかかる。気軽に試せるものではない。「何言ってるんですか!無理ですよ〜!」と、全部流していた。
でも。その中でも、「海を泳いだら?海を泳ぐレースがあるらしいよ。」この言葉だけは、まあ、実現可能そうだなと思った。ほんのちょっとだけ。で、そのまま忘れてた。ある時また、SNSで「市民プールで泳ぎました。いつの間にか7年くらい泳いでます」と投稿したら、また別の友達に「へー!そんなに泳いでるなら、大会に出たら?」とコメントが来た。「それもそうだな。」と納得し、その場で海を泳ぐレースについて調べてみた。近場で行われる3ヶ月ほど先の大会がまさに今エントリー受付中だったので申し込んでみた。ほんの500mの試合に。
当日は足が重かった。海を泳ぐなんて怖い。プールと違うし足もつかない。溺れるかもしれない。サメに食べられて死ぬかもしれない。怖くて怖くて、当日の朝まで行きたくない怖いと騒ぎ、親しい友人に励まされてなんとか会場まで行った。その日はやや波があって、熱中症にならんばかりに暑くて水温も高くてしんどかったけど、まあなんとなく適当に泳いでゴールした。なんか知らんが、女子の部6人中2位だったということで表彰されてメダルと賞状をもらった。謙遜でなく私の記録は速くなかったのだが、波に酔って暑さに負け、みんな絶不調だったらしい。メダルを首にかけて地元の新聞に載せる写真を撮られながら、「私はこの世界に呼ばれてるんだろうな」と、思った。
次の月には、その勢いでアクアスロン(スイムとラン)大会に出てみて、遅かったけど完走した。大会で知り合った人たちと話していてオープンウォータースイマーにはトライアスロン(スイムとランに加え、バイク)をやってる人が多いことを知って、興味は湧いたけど、「高いロードバイクを買わなきゃいけないし、トライアスロンをもしやるとしたら10年後くらいかな」と思った。で、数ヶ月ほど経ったシーズンオフの冬のある日、ほんの試しに近所のトライアスロン用バイクショップに寄ってみた。そしたらその日はたまたま日本最大のトライアスロンバイクメーカーの社長さんが営業に来ていて、5000人いるfacebookの友達の一人にしてくださってトライアスロンについて色々教えてくれて、なんか知らんうちにいつの間にかバイクを買ってそのショップのクラブに入って大会に出るようになってた。ほんとにあっという間だった。見えない流れに押し流されたような感じだ。振り返れば、大学時代にハンググライダーを引退してからずっと新しい趣味を見つけられず、ずっと心に穴が空いてた。それがやっと埋まった。中・高ではバスケ部で走り込み、大学生時代は数十万するマイグライダーで大自然と戯れ、社会人になってからは市民プールで泳いでいた私にとって、スイム、バイク、ランのトライアスロンは、まさに最適でしかなかった。
今思えば、あのとき「トライアスロンやったら?」「海を泳いだら?」と言った彼ら彼女らは、先見の明があったとしか言えない。私は全く意識してなかったけど、何か私から「トライアスロンをやりそうな何か」が出ていて、彼ら彼女らはそれを受け取って、言葉にして私に教えてくれたのだろう。
ちなみに私から他の人にそれをしたこともある。以前に勤めていた職場で、私がある穏やかな同僚をなんかの流れで「なんか悟りを開いてそう」とイジり(今思えばひどい話だ)、「彼を教祖にしてみんなで宗教法人を作ろう」と妙に盛り上がったことがある。勤務中に。仲が良くゆるい職場だったのだ。彼は当時教員を目指し、試験勉強をしながらその職場にいたのだが、風の噂で、教員になったあと神学部に入り直していまは牧師になっていると聞いた。宗教法人の未来はほぼ正解であった。
また、大学生のときに、新聞記者を目指して就活をしている友人に、「なんか君はテレビ業界のほうが合いそう」と言ったことがある。なんの根拠も経験もなく直感だけでそう言い、今思えば実に失礼な物言いであり、彼もさほど仲良くもない私に突如そんなことを言われて戸惑っていたようだったが、最終的には某元国営放送に入って今はバリバリディレクターをやってるらしい。私の助言が彼の進路に影響を与えたとは思わないが、私は何か彼の未来を受け取って、伝える役回りだったのだろう。
これらの経験から、もし周りの人々に、「○○やってみたら?」「○○似合いそう!」「○○やってそう!」と無責任に(←重要)言われることがあったら、特に同じことを複数の人に言われたら、どんなにそれに興味がなくても、試してみるのがいいと思う。「簡単に言うけどさ!」「適当なこと言いやがって」「私の何を知ってるのさ!」と、反発心が沸き起こるかもしれないが、その言葉が真実である可能性はわりと高い。意外に人は自分のことをわかっていないのだ。人が意識しているのは自分の心の中の1割未満、せいぜい1〜5%で、それ以外は無意識だという。99%の自分の知らない自分を知るには、傍からどう見えるのか教えてもらったほうが手っ取り早い。
ちなみに私は、「文章を書く仕事が向いてそう」と言われたこともかなりの回数ある。私の文章を読んだわけでもないひとに。そもそも、小学生のときの文集に書いた将来の夢は「作家」だった。別に文章を書いていたわけでなく、むしろ絵ばっかり描いてたのに。今こうしてnoteを書いてることも、一つの見えない流れの中にいるのかなと、思う。