随筆家に憧れたあの頃のお話。夢は叶うとか。
小学生の時、兼好法師の随筆「徒然草」の漫画が家にあった。勉強しなさいとは言わないものの教育にそれなりに熱心な母が、いつのまにか買って置いてくれていたのだ。その母の方針で我が家には漫画は学習漫画しかなかった。「なかよし」や「ジャンプ」を心ゆくまで読めないフラストレーションを解消するように、私はこの「徒然草」1・2巻を何度も何度も繰り返し読んだ。
この漫画は本当によくできていた。今思い出しても、100万部とか売れてアニメ化されて大ヒットしていいんじゃないかと思うレベルだ。絵もうまいしテンポも最高にいい。ギャグのキレもよく、兼好法師はじめペットの「シロ」など、キャラクターも個性的で魅力的だ(調べると、漫画家さんの二人[一人?]、しもがやぴくす&みらい戻さんはもともとBL系の作家さんらしい。道理で兼好法師もその他坊さんも、男性を描くのがうまいわけである…めちゃめちゃダンディ)。軽妙なやりとりで兼好法師の考えが描かれ、さらに原文とくだけた日本語訳があり、本当にわかりやすかった。ほとんどの中学校の教科書に掲載されている「つれづれなるままに」「仁和寺にある法師」を始め、栗を食べ続けて結婚できなかった美女の話、頭にかぶったツボが抜けなくなった間抜けなお坊さんの話、現代でいうキラキラネームをつける親はダセーよねというお話、どれも面白くて、セリフとコマ割りと構図を覚えるレベルで何度も読んだ。
同じ漫画シリーズ、別の漫画家の「枕草子」も面白かったが、徒然草のほうがより含蓄を感じられて好きだった。どこかで読んでなるほどと膝を打ったのだが、兼好法師はもともと実力のある歌人なのもあり、言葉運びが巧みだ。音読すると、五七五でないのに歌をよんでいるような感覚が得られる。
中学生のときには、さくらももこ氏の随筆、つまりエッセイ「もものかんづめ」シリーズに夢中になった。友達に薦められて読んでみたら爆笑もので面白すぎて、当時さくら氏が出していたエッセイは「あのころ」「そういうふうにできている」「ひとりずもう」など出ているものは片っ端から買って読み漁った。通学の電車の中で読むと、笑いが吹き出してしまってなかなか大変だった。
高校生のころには、何がきっかけだったか柴門ふみさんのエッセイにハマった。大ヒットしたドラマの原作「東京ラブストーリー」で有名な漫画家だ。漫画のほかに小説やエッセイも書いていて、それらが秀逸で私は文章の作品のほうがより好きだった。手元になくどれだったかタイトルが思い出せないのだが。(余談だがこの柴門ふみさんの旦那さんは「島耕作」の作者弘兼憲史さんである。この方の漫画に出てくる男どもは[私は島耕作より『ハロー張りネズミ』が好きである]美人と知り合えばすぐ寝るという割とどうしようもないやつらなのだが、実際の弘兼氏の奥さんを選ぶ目はありすぎて驚いた。この知的実力派漫画家の二人が夫婦だと知ったときは、その素敵さに戦慄したものである)
大学生のときには、(当時)東大の数学教授藤原正彦氏と同じく東大の医学教授養老孟司氏のエッセイにハマった。ちょうど新潮新書の、それぞれ「国家の品格」と「バカの壁」がベストセラーになった時期であった。大学生として知的な刺激に貪欲だった私にとって、学術的・科学的な思考訓練を続けた二人の鋭い視点が超絶カッコよく映り、確かな論理に裏付けられた主張にすっかり心酔した。この二人の本も、当時出ていた本を片っ端から買って、全部読んだ。養老先生の本は「死の壁」「養老孟司の逆さメガネ」が特に面白かった。藤原先生の本は、アメリカとイギリスに移住し教鞭をとったときの経験を書いた「若き数学者のアメリカ」「遥かなるケンブリッジ」が傑作である。文化人類学的に日本と英米の文化の違いを描写しつつ、日本人としてのアイデンティティや誇りに向き合っている。私の人生で一番好きな本を挙げよ、といわれたときに挙げる二冊である。
私はまあまあ読書量はあるほうで、先述したエッセイ類のほかにももちろん、現代・時代小説だの論説系新書だの古典だの専門書だの神話だのなんだのいろいろ読んだが、あらゆるジャンルの中で、筆者の思想が飾らず率直にしたためられたエッセイが一番好きだ。知的好奇心を刺激するような賢い人生の先輩のエッセイは格別だ。近頃は、(実は先述した「国家の品格」「バカの壁」もおそらくそうだが、)「筆者」と書かれた人が語った内容を編者が平易に書き起こした本が増えている。本当は、実際にその著者が書きおろした文章がやっぱりよい。言葉選びにも筆者のセンスが現れ、その人の世界観を感じられる。人間の思考は言葉で行われる。言葉を生のままで楽しめたら、素材そのものの味を直接的に感じられるのだ。
さて大学を卒業するにあたり、自分の将来を考えねばならない時期が来た。当時の私は勤めたいと思う企業・やりたい業種を見つけられず、四苦八苦していた。「私が心からやってみたいこと、なりたいものはなんだろう」とうーんと熟考した結果、答は「エッセイスト」であった。しかし、今まで書いた人はほぼすべて、もともとは「法師」「漫画家」「研究者」など、別の道で十分に活躍をし、名の通った人である。そりゃそうだ。どこの馬の骨かわからない人間の思考を垂れ流したものを編んだとして、誰がわざわざ身銭を切ってそれを購うだろう。何かを成した人間だからこそ、その思想を知りたいと思われる。知的な仕事でさまざまな経験を積み、独自の感性と知識を養ったからこそ、含蓄のある文章を生み出せる。社会経験のない新卒がおいそれと目指すものではない。「エッセイスト募集・未経験者歓迎」なんて求人はリクナビにもマイナビにもないし、せっせと書き溜めて出版社に持ち込むのもなかなか現実的ではない。ということで、コンマ0秒で諦めた。
適当に就職して社会人になったあとは、親戚の知的な大叔母に教えてもらって、東大の中国文学者、高島俊男先生の「お言葉ですが…」シリーズをよく読んだ。言葉のスペシャリストの同氏の、言葉に関する切れ味鋭い指摘が光るエッセイである。こちらも本当に面白い(私の文章も怒られそうでちょっと怖いけど…。文学部卒の同僚に貸した時も、『怖かった』とひたすら言っていたなあ)。あと、俳優の堺雅人さんが好きで、同氏のエッセイ「文・堺雅人」シリーズも読んだ。面白かった。芸能人のファンブックというより国語の先生のエッセイを読んでいるようで、知的好奇心をくすぐられお勧めである。エッセイ漫画山本さほさん「岡崎に捧ぐ」東村アキコさん「かくかくしかじか」も最高に面白かったなあ。何者でもない地方の小娘から漫画家になるまでの道のりを、爆笑と涙で読める傑作である。
そんな感じで読み物をしながら、書き物と言えばせいぜいTwitterをしながら暮らしていたら、今年に入って新型コロナが流行り、緊急事態宣言がでる運びとなった。自転車で20分の通勤が不要になり、ずっと家に引きこもることとなった。最初は在宅勤務に慣れなくて、ジムにも飲みにもいけないのが不自由で、何より新型コロナが今後どうなるのか不安で、精神的に落ち着かなかった。そうこうしているときにTwitterで「ニュートンが万有引力を発見したのは、ペストによる大学休校の時期であった。本人はのちに『創造的休暇』と呼んだ。引きこもると人は創造的になれる」という情報が入ってきた。ふむそれはよいなと思い、作っただけで放置していたアカウントを開き、とにかく最初はTwitterをコピペして記事を作り、週に2回自分を叱咤激励しながら書き、今も更新頻度は落としたものの続いているのがこのnoteである。
「エッセイストになりたい」と思ったあのころ、とにかく自分の将来が不安でしょうがなかった。みんなはスイスイと行きたい業界行きたい会社を選び進路を決めていくのに、「行きたい会社がない」なんて小学生みたいな理由で動き出せない自分のことを、よほど社会的に欠陥がある人間なのだろうと思った。そんな中一つだけ浮かんだ「エッセイストになりたい」という願い。荒唐無稽に思えて一度は葬り去ったけれど、今の私は一応エッセイストの端くれと言えるだろう。アマチュアで本業は会社員だし、このエッセイで1円も稼いだことはないけれど、事実エッセイを書いている。少しずつ読んでくださる人が増えて、最近は1記事書くといつの間にか数百のビューがついて、20くらい、多いと50以上の「スキ」をもえらる。自分の考えたことをつらつら書いて、どこかの誰かがそれを読んで「面白い」と思ってくれる。なんて嬉しいことだろう。
「やりたいことがない」という言葉は、いろんなところで時々聞く。私もときどきこぼす。でも意外と人がやりたいこと、好きなことは小さいころからずっと心にあって、眠らせてるだけなのかもしれない。「やりたいことはあったけど、無理だから諦めた」。これもよく聞く。でもたいていの場合、「執筆するからには出版して売れて有名になければならない」など、何か自分の中で制限を付けているだけのような気がする。「エッセイを書いて誰かに読んでもらいたい」というだけなら、noteでもfacebookでも使って簡単に実現できる。「エッセイスト」「随筆家」などと言うとなんとなく専任の職業人のことを指しているように聞こえるが、エッセイを書いていたらそれはアマでもプロでも上手くても下手でも、エッセイストであり随筆家である。ライターも。漫画家も。テニスプレイヤーも。ピアニストも。俳優も。政治家も。その呼び名は「それをしている人」を指すに過ぎない。小さな規模ならば夢は簡単に叶う。上手になって欲が出てきたら、規模を大きくしていけばいい。場合によっては仕事にしていけばいい。やりたいことをやるのは、本当に簡単なことなのだ。
若いときに夢見た小さな願い。せっかくまだ生きる時間を与えられているのだから、一つ一つ掘り起こして、叶えながら過ごして生きたいなと思う。いろんな人が記してくれた文章を楽しみながら。せっかく生きて考えたことを、つらつらと徒然と文章に残しながら。