対話でつくる民主的な学校
今日は2月4日立春。暦の上では今日から春ですね。昨日、出かけた先で、梅の花が咲いているのを見つけ、春が少しずつやってきてるんだなぁーと思いました。
さて、今日は学校を民主的な場、民主主義を教える場にしていくためにどうすればいいのかという話題です。昨日、YouTubeに茨城県教育研修センターがアップされている「Ed cafe」というのもを観ていました。ゲストは、みんなの学校の木村泰子さん、教育哲学者の苫野一徳さん、学校の当たり前をやめた横浜創英の工藤勇一さんと超豪華メンバーで、テーマは「未来の民主主義を実現するために、学校教育を考えよう」でした。
工藤さんがよくおっしゃっていることに「当事者意識」というものがあります。子どもは、生まれた時は主体的であるのに、学校教育によって主体性を奪われ、当事者として関わらなくなってしまうというものです。中学校では、まずそこを取り戻すことから始まるとよく言っておられます。教師に言われたことを言われたとおりにすることがよいと思わされ、そこからはみ出た子は困った子として扱われます。木村さんは、「科学的に証明できないようなことを発達障害として病気にしてしまっている。それぞれに合った方法があるのに、それをさせずに子どもにレッテルを貼っている。」というようなことを言っておられました。
また、何でもかんでも教師がお膳立てして手をかけ過ぎた結果、自分で解決する術を知らず、何か上手くいかないことがあると他人のせいにする子になります。そういった環境の中で、自分で考えることをやめてしまうんだと思います。友達同士のトラブルも、大人が間に入って解決してしまうと、その子が解決する方法を学ぶ機会を奪ってしまいます。その結果、解決する術を身につけることができす、大人に依存し、不平不満だけを言う子になります。
それから、今だに学校の最上位目標に「知・徳・体」を掲げているような学校は、ダメだと工藤さんは言われていました。まさにうちの学校、そして前任校がそうでした。というより、私の地域の学校のほとんどがそうだと思います。私も、もともと「かしこく、やさしく、たくましく」という目標に疑問を持っていて、それを子どもたちに言っていることにとても違和感がありました。
私が思う教育の目的は、「人と社会のwell-being」です。一人一人が自分の生きたいように生きるための力を育むことと、誰もが幸せに生きていける社会をつくっていける人を育てることだと思うのです。そう考えた時に、まず学力テストで測られるような知識・能力が本当に必要なのか、思いやりの心だけで平和な社会がつくれるのかなど、これらが一番にくることに違和感を感じます。工藤さんは、教育の目標は、当事者として社会と関われる自律した子どもを育てること、そして対話で対立を解決できる民主的な子どもを育てることが最上位だと言われています。今の学校教育では、主体的、対話的で深い学びという言葉が掲げられてはいるものの、実現している学校はほとんどないと言っていいと思います。前述したように、逆に主体性を奪っているのが今の学校です。
工藤さんは、「教員の提案で唯一どんなに効果があっても認めないのは、生徒に決定権や選択肢がないもの」と言っておられました。例えば、却下された提案に演劇教室というものがあります。これは、演劇に触れさせたいという教員の思いで、全員を連れて行くという行事です。演劇を観に行きたい、行きたくないに関わらず無理矢理全員を連れて行き、現地で寝ていたり、きちんとしていない子に指導するなんて馬鹿げていると言っておられました。私が経験した学校の行事に「詩の暗唱大会」というものがあります。全員が自分の選んだ詩を覚えて、学年全員の前で発表し、代表を決めて、全校の代表者で競うコンクールのようなものです。これは、大会に参加するかしないかについて、子どもの決定権がありません。しかも、暗記することや大勢の前で発表することは、人によって得手不得手がはっきりするものであり、子どもの人権が無視されています。また、この大会に付随して、日常でも詩の暗唱が行われており、子どもたちにノルマが課されています。覚えたものを校長先生などに聞いてもらうというもので、その学習時間は休み時間に設定されています。苦手な子は、必死の思いでやっていると思うと心が痛みます。そして、子どもたちが楽しみにしている休み時間であり、その時間は子どもたち同士が関係性を育む大事な時間です。この取り組みが大事で、モチベーションにつながるという先生や、「学力を上げる手っ取り早い方法は、中上位層に高い目標設定(詩の暗唱のノルマ)をすること」と言った先生もいました。思っていることがあるのに、何も言わず黙っている人も大多数。これが、学校の現状です。
私は、こんな大人が勝手に考えて強制するような行事はやめるべきだと思っています。なぜなら、民主主義に反しているからです。こんな取り組みで民主的に自分で考えて行動できる子が育つはずがありません。子どもたちに決定権を委ね、大人は子どもたちが主体的に行動していく環境や安心して失敗できる環境をつくり、そっと見守る。そして、教えていくべきことはきちんと教えていく。こんなことができたら素敵だなと思います。
民主的な対話を子どもたちに教えていくのであれば、私たちも民主的に話し合い、対話の文化が職員室に根付いていないといけません。先ほどの発言をされた先生には、怒りが湧いてきましたが、これを感情に任せて言ってしまっては、対話は成り立ちません。自分の感情と切り分けて、この問題を解決するにはどうすればいいのかということに力を注いでいくのが民主主義なのでしょう。まずは、教育の本質について、教員同士が語り合うことが一番なのかなと思います。ここを合意できれば、何かあったときに立ち返って考えることができます。なかなか難しいですが、なんとか対話文化を学校に根付かせたいと思います。