中国で8年暮らして外国人から異邦人になれたのかもと思ったお話。そして憧れはコスモポリタンな件
昨日の note を書いている途中に、自分は日本人から外国人に、そして今では異邦人へと変化したのではと気づきました。
中国に来ると、わたしは「外国人」になります。
自国以外に場所にいれば、どこの国の人でも外国人になれます。どこにいるか、だれと一緒にいるかが「外国人」と呼ばれるかの鍵です。当人の資質や能力にかかわらず得られる称号、それが「外国人」です。
しかし、中国生活が続くにつれて、わたしは自分のことを「外国人」と思ってますが、親しい友人たちはそうは思わなくなっているように感じるようになりました。また、ちょっとした会話をする人たちの反応も変わってきました。
中国にきて最初の数年は「韓国人?」と聞かれたり、台湾もしくは香港から来たのかと聞かれていました。
でも、今年に入ってからは、ほとんど例外なく「どこから来たの」と聞かれます。ずっとこれを外国のくくりで質問されていると思ってたので、日本からですと言うと「見た目ではわからない」と言われます。
そこで初めて外国人かどうかを聞かれていたのではなく、文字通り「どこから来たのか」を聞かれていたと気づくわけです。
中国のどこから来たのかという意味かもしれませんし、どの国から来たのかという意味かもしれません。しかし、いずれにしても「ここではない場所から来た人」と認識されてます。
先日アメリカ人と一緒にいるときに「外国人?」と聞かれました。
それでもしかするとわたしは、アメリカ人が一緒の時は間違いなく「外国人」と認識されるけど、単独でいるときは中国人かもしれないけど「どこの誰だかわからない人」と思われているのではと考えるようになりました。
これは日本に帰っても同じです。
日本語を話し、日本で買った服を着て、いつも通り振る舞っているのに、店員からは英語で話しかけられるし、空港では外国人レーンへ並ぶようにすすめられます。
古くからの友人からも、わたしは中国人っぽいって言われます。
中国人ぽいってどういうことと聞くと、詳しくは答えられないけど日本人ぽくないと感じるそうです。
つまり、今のわたしは日本人と同じではないと受けとられている。友人はわたしが中国で暮らしていることを知っているので「中国人ぽい」と言うわけで、もしかしてマレーシアに住んでいたら「マレーシア人ぽい」と言ったのかもしれません。
それで、そうか自分は自分のことを中国に住む「外国人」だと思っていたけど、すでに「異邦人」になったのだと気づきました。
異邦人の「邦」のそもそもの意味は「国」です。
「邦」は、日本という意味ではありません。邦楽とか邦人って言葉があり、それぞれ洋楽に対する日本の音楽、外人に対する日本人という意味ですが、日本人が言う場合「邦」は」「日本」であり、同じ漢字を別の国の人が使えば、その人の国のことを指します。
また、国語辞典によると、異邦人という言葉はユダヤ教徒がキリスト教徒に対して使うそうです。ですから、自分たちとは考え方や感じ方、生活習慣が違う人に対して用いる言葉とも言えます。
それで、わたしは8年にわたる海外生活で、中国人から見ても日本人から見ても自分たちとは違う人、つまり異邦人、格好つけてカタカナ言葉を使うとエトランジェになったのだろうと思います。
自分が異邦人であることと意識していると、気持ちが楽になります。みんなと一緒でなくても仕方がないと思えるからです。
日本に帰った時に、当たり前のルールを知らずに守れなかったり、空気読めなかったらどうしようと悩んでました。でも、異邦人となった自分が空気を読めるはずはありません。また現地の細かなルールをすべて把握できるはずもありません。
むしろ、こちらこそ普段と違う空気を楽しんでやろうくらいの気持ちになりました。
マレーシアに滞在していたとき、朝早くからコーラン朗読が流れているのを聞きながら、異世界だなぁなんて感じるとき、ストレスなんてありません。それと同様に、日本で感じる日本的な習慣や生活スタイルも新鮮な気持ちで捉えればよいのです。そうすれば楽しめます。寂しさを感じる必要などありません。
わたしの人生の目標のひとつに「コスモポリタン」になるというものがあります。
世界的に活躍なんて目指していません。祖国のことも忘れてなんていません。でも、国籍や国民感情にとらわれず、世界的視野持つことを目指し、全世界を自国と思い暮らすとき、人は世界のどこに住んでいても外国人、そして異邦人となれます。そういう人間に憧れています。
そして、自分のことを「異邦人」かもと思えたということは、もしかすると「コスモポリタンになる」という目標にまたひとつ近づいたのかもしれません。
そんなことを考えてました。
今日も最後まで読んでくれてありがとう。また明日。