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スマホと人生偏差値『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』を読んで

『HORIE ONE』での作者の麻布競馬場(アザケイ)さんのトークが最高におもしろかったので、即入手した。

私も上京して20代を東京で過ごし、地方に出戻った人間の1人。
泉麻人さんの『東京23区物語(1988年)』みたいに、「東京あるある、わかる~」と自虐的に笑えるかと想像して読み始めたら、だいぶ違った。

中学生が『人間失格』を読んだ時のような、そんな何とも言えない読後感。
自分がもし東京で暮らすドンピシャ世代だったら、ネットレビューで散見するように、共感と虚無感に打ちひしがれていたかも。

20年前の東京にも、アザケイさんが描くような若い成功者もよくわからない怪しげな仕事をしている人たちも、玉の輿にのった友達もいたし、それを妬んだり比べて挫折者になったかのようなドロドロした感情も確かにあった。

それでもさほどダメージを受けることもなく「人は人、自分は自分」でいられたのは、自分がメンタル強者だったからではなく、おそらく当時はスマホ登場前で情報量がずっとずっと少なくて、価値基準がまだ「自分」に設定されていたからかなと思う。

同じ動画内で、堀江さんが「当時は成功した起業家でも顔は知られてなかったから、わかりやすくラウンジでシャンパンを開けるしかなかった(堀江さん本人は当時からよくニュースで顔を見る有名人だった)」と言っていたけれど、今じゃ有名起業家どころかサラリーマンでも、勤務先名だけで年収検索サイトで収入が知られてしまう。
ロブションと聞いても、何だか知らないけど高級レストラン?と想像して終わりだったのが、今じゃ1人前のコース料金がいくらなのか公式HPにも載っている。

静岡県出身、元サッカー部、慶応商学部卒、リクルート勤務、麻布十番、という一つ一つの固有名詞のもつ情報量が今はずっと多い。その一文だけで浮かびあがる人物像の解像度は、インターネット普及前とは比にならない。

かつては視力0.07でぼんやりとしか認識していなかった隣の誰かとの差異が、4Kテレビのようなクリアな画質で浮かび上がってくる。そしてその可視化されたスペックで、自分の人生が偏差値化されているような怖さ。まさに隣の知らない誰かが、そして自分の中のアザケイが見ているかのような…

あの頃は、知らないことによって、傷つかずにいられたのかもしれない。

今やスマホが行きわたった地方にも、人生偏差値は波及している。
かつては千葉も埼玉もざっくり「東京のどこか」と一括りにされていたけれど、今じゃ田舎のおばあちゃんですら「娘が東京の成城にマンションを買ってね」と固有名詞を使う。家を建てたと年賀状でも出そうものなら、セキスイじゃなくて建売なんだ~とストビューで眺められてしまう。
地方発のタワマン文学が出てきても、ちっとも驚かない。

本の帯のキャッチコピー「東京に来なかったほうが幸せだった?」とは一度も考えたことがなかったけれど、もし「スマホがなかったほうが幸せだった?」と問われたら、答えに迷ってしまうかもしれない。


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