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神田伯山の講談会から考える、日本の落語の未来

はじめに

なんて、偉そうなタイトルをつけちゃいましたが。

昨晩、神田伯山の定例講談会「神田伯山 PLUS」を観て来ました。
神田伯山は超売れっ子の講談師で、チケットは一般販売だと販売開始後、5秒もかからずに完売となります。いつもこれが謎で、転売狙いの業者が機械で大量注文しているのかな、と思ったり。
私はイープラスの抽選で、毎年一回は当たるので観に行っています。「神田伯山 PLUS」は今回で3回目です。

落語が急速につまらなくなった理由


以前は、落語にハマっていたので、月に2・3回は落語会や寄席を観に行っていました。ところが、年々、落語がつまらなくなってきて、観に行く回数は減るばかり。
自分は全然笑えないのに、まわりが笑っているのを見ていると、「自分の感覚がおかしくなったのかな?」とちょっと不安になったりしますが、伯山の講談は普通に笑えるので、「自分がおかしいんじゃない。落語がつまらなくなったんだ」と再認識できるのが伯山の講談会です。
講談は笑わせるのが目的の芸ではないとは言え、伯山はお客さんを楽しませるために笑いもちゃんと盛り込んでいます。

落語がつまらなくなったのは、ひとえに落語家の慢心かな、と感じています。
たとえば、柳家喬太郎と春風亭一之輔は、今まではどんなネタでも爆笑していたので、独演会も期待して観に行っていました。いつも期待以上の高座でしたし。
ところが、ここ1・2年で面白くなくなってしまった。コロナ禍でリアルで落語会を開けず、オンラインでの落語会が多かったのも原因かもしれませんが、古今亭志ん朝の動画は今YouTubeで観ても十分面白いので、それだけが原因ではない気がします。

一之輔は笑点でレギュラーが決まり、喬太郎も映画やドラマの出演が増えました。そうなると、稽古の時間が減り、落語のことを考える時間も減るのではないかと。
SWA(林家彦いち、三遊亭白鳥、春風亭昇太 、柳家喬太郎の新作落語ユニット)も再結成してから2回観に行ったけど、全然笑えなくて。以前は涙を流すほど大爆笑したのに、「なんで、こんなにつまらなくなっちゃったの?」と客席で困惑しました。

もう大ベテランの域に達した噺家は、稽古をそれほどしなくても高座に上がれるのかもしれないけど。何となく、今の自分で満足してしまっている気がします。
だって、全身全霊で演じていないのが伝わってくるから。本人は全身全霊のつもりかもしれないけれど、若い頃の120%の全身全霊ではなく、80%ぐらいに落ちているのに、本人は気づいてないのかもしれない。それはやはり、慢心だと思います。
慢心は自分ではなかなか気づけない。だけど、知らず知らず自分の芸を削っていく、恐ろしい病です。それが落語界を覆っているような気がしてなりません。

心からの笑いと、つくられた笑い


笑いには違いがあると思う。
自然と笑ってしまう心からの笑いと、「周りが笑っているから、きっと面白いんだ」と流されて笑う笑いと、「自分がお気に入りの芸人なんだから、きっと面白いに違いない」と思い込んでいる笑いと。同じ笑いでも違いがあると客席にいて感じるけど、演者はそれを感じているのでしょうか。

お客さんは演者を育てたいなら、ムリして笑う必要はないと思います。
「一生懸命演じているんだから、笑ってあげないと」なんて思う必要はない。なぜなら、私たちは日々の仕事でミスをしたら怒られるし、自分が悪くなくてもクレームをつけられたりもする。毎日、懸命に仕事をしているからといって、「仕方がないよね」と許してもらえるわけではありません。

落語家や講談師など、話芸のプロを選んだのなら厳しい批判にさらされるのは当たり前で、それも仕事のうちです。
「面白くない」ということを自覚できなければ、成長もない。だから、「おもんないよ」という姿勢を示すことが落語を存続させるのだと、私は個人的に思っています。
つまり、落語が面白くなくなっているのは、お客さん側の問題でもあるということです。
「役者殺すにゃ刃物はいらぬ ものの三度も褒めりゃいい」という有名な言葉もありますが、褒めてばかり、笑ってばかりいたら、却って演者の将来をつぶしてしまうのですね。

伯山から感じる覚悟と気迫


前置きが長くなりましたが、昨日、伯山プラスを観て、「もう伯山だけ観てればいいかな」と感じました。
伯山もテレビにはよく出ているし(とくにNHK)、映画の吹き替えなど講談以外の仕事もたくさんしているけれど、いつも変わらず迫力のある講談で、少しも手を抜いていないのが分かります。前座時代から、まわりが呆れるぐらいに稽古に明け暮れていたそうですが、今もそれは変わりないんじゃないかな、と思います。

おそらく、それは講談界を背負って立っている覚悟があるからじゃないかな、という気がします。
一部のコアのファンしかいなかった講談を、私を含め、これだけ多くの人が観に行くコンテンツにしたのは伯山の功績に他なりません。ただ、伯山以外の講談師も前よりはお客さんが増えているでしょうが、まだまだ伯山一強で、伯山が崩れたら講談は多くのお客さんを失うでしょう。
それが分かっているから、150%ぐらいの全身全霊で演じているのではないかと思います。そりゃあ、お客さんは惹きこまれますよね。

大満足の講談、だけど苦行もあり…


昨日の伯山の演目は「ボロ忠売り出し」と「鍋島の猫騒動」でした。

・ボロ忠売り出し
『天保水滸伝』のうちの1演目。丸屋勘吉という親分の子分である忠吉は、困っている者に自分の着物を分け与えてしまうような義侠心のある男で、いつもボロをまとっていることから「ボロ忠」と呼ばれている。
その忠吉は賭場に行ってみたいけれども着て行く着物もないし、お金もない。勘吉に頼んでも断られてしまったので、こっそり勘吉の着物とお金を拝借して、賭場に出かけてしまう。そして200両(現在の2000万円)を一度に賭ける、大胆な勝負をしたことから、大騒動になるというストーリー。

賭場での切った張ったの場面は、観ているこちらも緊張しました。とくにサイコロを壺に入れてダーンと床に叩きつける演技は大迫力!
あわや斬り合いになる場面では、仲裁に入る親方との掛け合いで笑わせて、緊張と緩和のオンとオフのバランスが絶妙でさすがだな、と思った一席でした。

この演目を選んだのは、もしかして、水原一平が騒がれているからかな、と勘繰ってしまいました。親分(大谷翔平)から大金を盗んで賭け事をするって、まさに水原一平がしたことですし。
ただ、ボロ忠はおとがめはなく、むしろ大胆な行動を称賛されて出世していくので、「ギャンブルぐらいでガタガタ言うなよ」と、もしかしたら伯山は思っているのかもしれません!?


・鍋島の猫騒動
初めてリアルで観る伯山の怪談話。
佐賀藩の鍋島光茂が家来の龍造寺又七郎と碁の対局をしていた時、光茂は「待った」を繰り返す。又七郎が苦言を呈したら光茂は激怒し、又七郎を斬り殺してしまう。その死体の処理を家臣に命じたところ、普請中の壁に塗りこめてしまった。
又七郎の帰りを待つ母親のもとに、飼い猫が血だらけになった又七郎の着物の一部を持って帰り、母親は息子に異変が起きたことに気づく。絶望した母親が自害する時に、猫に「末代まで祟ってほしい」と恨みを託す。母親の血をすすった猫は化け猫になり、鍋島家に災いをもたらすストーリー。


鍋島光茂に家来の新左衛門、又七郎に母親、新左衛門の母親と人間の登場人物だけでも大渋滞しているのに、さらに猫と化け猫まで演じていた伯山。猫の鳴き声に不穏な空気を感じました。
話を聞きながら、頭の中でリアルに情景を思い描けたのは、伯山の描写の仕方がうまいからだと思います。猫が血をすするシーンも生々しかった。

ただ、この演目は化け猫が退治されて終わるようですが、「えっ、化け猫より、光茂のほうが悪くない? 光茂には天罰は下らないの?」とモヤモヤしました。しかも、途中から家来と化け猫の対決になってしまうし。
「化け猫はなんで光茂の家族じゃなく、家来の母親を襲ったの?」とか、ストーリー的にはスッキリしないまま終わりました。

ところで、伯山の講談は今回も最高で大満足でしたが、つらかったのが中入り前の「まんじゅう大帝国」というお笑いコンビの演目。クスリとも笑えませんでした…。
若手にも鍛錬の場を与えようという伯山の心意気は素晴らしいですが、30分もつまらないネタを聞かされるのはさすがに苦行すぎるので、せめて10分ぐらいにしてほしかった。途中で寝落ちしました🤢
その時も笑っている人はいたけれども、前述した心からの笑いはそれほどなかったような。果たして、本人たちは、それを実感しているのかどうか。「笑いをとれた」と思っていたら、きっと未来はないと思います。

おわりに


立川志の輔は、以前、枕で「怒りや悲しみのツボは大体みんな同じだけれども、笑いのツボは人それぞれで難しい」と語っていました。ちなみに、その志の輔も前ほど面白くなくなったと私は感じています。
誰もが爆笑する笑いも、話に引き込まれる面白さも、何十年も演じていくのは想像以上に至難の業なのでしょう。
私にとっての最後の頼みの綱、伯山がこの先何十年も最高の芸を見せてくれることを祈るばかりです。

落語は、成長を止めてしまった真打より、勢いのある二ツ目に盛り返してもらうしかないかもしれません。今はまだ落語を観に行く人は大勢いるけれど、大御所がこのていたらくだと、いつかまた落語はオワコンになってしまいますよ。
その危機感を持ってほしい。今なら、まだ間に合うから。




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