たまに短歌 いろはにほへと
あかさたないろはにほへとちりぬるを
一夜人世に出逢う必然
あかさたな いろはにほへと ちりぬるを
ひとよひとよに であうひつぜん
9月20日に日本民藝館で林家たい平の講演を聴いた。芹沢銈介の企画展が開催中で、たい平が芹沢への想いを語るというものだった。話自体は他人事で、一緒に聴いたツレは「あれは、ちょっとねぇ」と不満気だったが、それはそれで私は面白いと思った。
たい平はもともと教師になりたかったのだという。高校生の時の担任がたまたま東京藝術大学の油絵科を卒業した人で、その担任教師から美大への進学を勧められたのだそうだ。それで武蔵野美術大学へ進学し、同学の造形学部視覚伝達デザイン学科を卒業したという。在学中から大学落語界では有名であったことは広く知られているが、本人としても卒業前には噺家になることを決めていたのだそうだ。その在学中に目にして衝撃を受けたのが芹沢銈介の「御滝図のれん」だったという。
10月26日には静岡市立芹沢銈介美術館の学芸員である白鳥誠一郎氏の講演「芹沢銈介と世界観」を聴いた。白鳥氏は1993年から現職で、現在は同館唯一の正職員学芸員だそうだ。講演の内容は、芹沢一筋に仕事をしてきての今の想いのようなもの。
もう何年も前のことだが、登呂遺跡公園の一画にある芹沢銈介美術館を訪れた。登呂遺跡のほうは、近所の幼稚園か小学校の田植え体験のようなもので賑やかだったが、平日だった所為もあり、美術館には私以外に殆ど客がなく、落ち着いて作品と空間を楽しむことができた。美術館は芹沢存命中に開館しており、美術館の中も外も芹沢自身の考えが反映されているらしい。展示はただガラスケースに作品を並べるというのではなく、ケースの中に古い時代の一般家庭のような設えを施したところに暖簾や座布団が配されていたり、調光が工夫されていたり、かなり凝った造りの美術館だったという記憶がある。帰りに美術館の売店で「いろは」模様の注染の風呂敷を買った。注染のものは当時すでに生産をやめており、在庫限りとのことだった。その売店の人に教えていただいた近所の蕎麦屋で昼飯を食べて帰ってきた。
芹沢というと自称「古道具屋」の坂田和實を思い出す。『ひとりよがりのものさし』にこんなことが書いてある。
世界とは何だろう。人はそれぞれの感覚で自分とそれを取り巻くものごとを認識し、それぞれの感覚と経験と理解に応じて、それぞれの世界を思い描く。自分を取り巻くものごと、それらに対する己の知覚・認識、その知覚や認識の蓄積は人それぞれだ。人は同じものを前にしても、同じように見ているわけではない。自分と他人との違いはもちろんのこと、自分に限っても昨日と今日とは同じではないはずだ。そう考えると、世界は個々の認識の断片が無秩序に蠢いていて取留めがないように見えてしまう。なるほど、世に大小様々な諍いが絶えず、人の数が増えるに連れて世情には共同体の分断や断片化の流れが一層はっきりしている。
その個々の「認識」は言葉で表現され、物理的には原子あるいはもっと小さな単位で構成されている。日本語ならば、いろは四十七音が素になる。原子ならば陽子、電子、中性子だ。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見し 酔ひもせず
諸行無常
是生滅法
生滅滅已
寂滅為楽
どれほど尊大な自意識を持っていようが、風景の中に溶け込んでしまうような控えめな自意識であろうが、人が思い描く世界は日本語を母語としている人にとっては僅かに四十七音で構成されている。なんと公平な世界だろう。その本来公平を象徴するものとして芹沢は「いろは」を作品のモチーフに選んだのだろうか。いや、おそらく、そんな余計なことは考えなかったのではないか。
芹沢はいろは模様の作品を数多く残している。見出しの写真は着物で、他には帯、風呂敷、暖簾、屏風などなど。芹沢が何を思っていろはを描いたのか知らないが、意識するとしないとにかかわらず、そこに世俗を超えた我々の世界を司る何かがある、かもしれない。あったら面白いではないか。
ちなみに、アルファベットは26文字だ。いろはよりも、もっと公平ということか。しかもアルファベットの言語には漢字のような飛び道具が無い。ますます公平だ。それで彼の地では「民主主義」なる幻想が生まれたのかもしれない。
そうはいっても、いろはであれ、アルファベットであれ、他の音や文字であれ、そうしたもので表現した途端に抜け落ちてしまうこともたくさんあるに違いない。たくさんあって欲しいではないか。文字やデータで表現できるものが自分の世界の全てだなんて、、、やっぱり、そんなものかねぇ。その僅かばかりの文字列から抜け落ちたところに生命の豊穣が秘められていると私は睨んでいるのだが、、、