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月刊みんぱく 2021年5月号 特集:島世界の弔い

昔、『納棺夫日記』という本を読んで、それをもとに作られた『おくりびと』という映画も観た。映画の方はともかく、本の方は後半がだいぶ粗雑だったという印象が残っている。昔のことなので、記憶が定かでないのだが、日本の葬送儀礼は無茶苦茶だというようなことが書かれていた気がする。しかし、死という誰も経験のない事を扱うのだから、葬礼の考え方に時代や社会の変化に応じた振れが生じるのは当然のことだ。逆に何百年も同じフォーマリティが維持されていたとしたら、そのほうが奇怪だ。

埋葬に関しては、たまたま今読んでいる河出書房新社の「道の手帖」シリーズにある『宮本常一 旅する民俗学者』に興味深い記述がある。

甕棺は九州だと弥生の中頃から後期にかけてたくさんつくられている。それが対馬では今でも使われておるんです。甕棺には、釉薬をかけた高級なものと、素焼きのものがある。素焼きの甕棺だと中に水がたまらないが、釉薬のだと中には水がたまっている。人間の身体は長い間たつと溶けるんです。骨まで溶けて、すごくきれいな水がたまるんだそうです。まあ、私は見たことはありませんから、甕棺を掘った人の話ですけれども、その完全にすきとおった水は、飲んでみると味がするという。(37頁)

これは宮本の講演録「かなたの大陸を夢みた島 対馬・五島・種子島にみる離島問題」のなかの一節だ。対馬で「甕棺を掘った人の話」として語っているのだが、そんなことがあるのだろうかと素朴に疑問に思うのである。今月号の「月刊みんぱく」の方には骸骨が甕棺の中に収まっている写真が何枚があって、記事によると日本の弥生時代とほぼ同時代のベトナムや徳之島のものらしい。宮本が語っているのは遺体をそのまま甕棺に納めたもののことで、「みんぱく」の方は風葬にした後の遺骨を納めた複葬という違いがある。骨にしてから甕に納めれば、体液に浸るというようなことがないので、骨のまま残るのはわかるが、遺体を納棺した場合に甕棺の中で骨が溶けるものなのだろうか?仮にほんとに溶けたとして、その水を「飲んでみる」か?

学生の時、矢内原勝先生の授業で、遊牧民が家畜を潰したときにはその血液も無駄にせずに食料にするという話をされていたことがいまだに頭から離れない。他のことはきれいさっぱり記憶から消えているのに。血液を容器に収めて静かにしておくと、やがて血清と血餅に分離する。血清の方は飲料にして、血餅の方は「血餅煎餅」にして食べる、というのである。対馬で甕棺の遺体が水になるという話を読んだときに、その矢内原先生の話を不意に思い出した。血餅を食べるのは、例えばソーセージの赤黒いやつは血餅入りだろうと容易に想像がつく。他に血餅を使った食べ物はあるだろうかと検索してみたら、noteで血餅の料理を紹介している人がいた。

今回「みんぱく」で取り上げられている「島世界」は琉球列島、インドネシア、ベトナムだが、東南アジアの島嶼部では西欧の植民地支配を受けるまでは一旦風葬などで骨にしてから骨壷や甕棺にその遺骨を納めて弔う「複葬」が一般的だったそうだ。そのことが何を意味するのか、というところまでは本誌で示唆は無いのだが、弔いと社会の構造などの関係を調べてみたら面白いかもしれない。

そういえば、前に古墳の本のことを書いた。


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