150人考 『危機言語 言語の消滅でわれわれは何を失うのか』
現在、世界で使われている言語は6,000〜8,000と言われている。言語集団は生活様式を共にする人々で、その集団だけで生活が完結するなら他の集団との交渉は必要ない、はずだ。それで生活に不足のない状態が長きに亘り安定的に継続していれば、特に何かに記録を書き記す必要もないので文字は発達しない。そうして文字を持たないままに存続してきた言語がたくさんある。また、生活環境の中に適当な記録媒体を見い出すことができず、文字を発達させる機会に恵まれなかった言語集団も少なくないだろう。しかし、歴史においては、粘土板に文字を記した文明もある。必要に迫られれば、やはり文字は生まれる。
文字を必要とするのは、どのような状況だろうか。例えば、日本は統一政権が誕生した時点で、独自の文字を持たなかった。記紀も万葉集もオリジナルは漢字表記だ。漢字表記だが中国語ではない。漢字は表意文字だが、意味から文字を選択しているわけではなく、日本語の音に漢字を当てている。所謂「万葉仮名」である。大規模な権力機構が成立し、行政事務が発生すれば、自ずとその複雑な内容を記録し伝達する必要が生まれる。記録し伝達するには書き手と読み手との間で文字情報が共有されていなければならない。そう考えると、文字は権力と関係していると見ることができる。
「権力」というと大規模な共同体を連想するが、個人対個人の関係においても、相手に対する自分の欲求の表明は、きわめてささやかではあるけれど、相手に対する自己の権力行使だ。闇雲に欲求を発散したのでは相手との関係は成立しない。本来的に欲求表明は必要に迫られたものであるはずだ。文字を必要とするほどではないが、意思疎通が必要な状況で言語が生まれる。
人類が文明を築き始めた頃の言語の数は3,000から5,000くらいだったと言われているらしい。
そもそも人間の脳の能力として、相手の人となりも含めて認識できる数は150人くらいが限界らしい。つまり、種としてはこんなに多くの人口で生きることを想定していなかったということだろう。もちろん、150人というのは1人が認識できる相手の数なので、それが連鎖すれば無限大に数が増えても矛盾はしない。しかし、生活環境を自己の生存に適した状態に維持しつつ共同体を営むには、それ相応の共同体の規模というものがあるはずだ。無限に増加する人口を、生態系が定常状態の中で許容できるはずはない。よく言われるのは、食料や水の確保が困難になり、人類生存の危機を迎える、というわかりやすい理屈だ。
19世紀以降の人口増加は爆発的で、地球の環境問題の殆どは人間の急増に起因している。しかし、現在、世界で生命の危険のある飢餓に直面している人が2億人いると言われている一方で、健康に深刻な影響を及ぼすレベルの肥満体が7億人という話もある。東南アジアの托鉢僧の目下の悩みの一つは肥満に起因する慢性疾患だそうだ。托鉢僧は喜捨された食べ物を残すことは厳禁とされているので、満腹でも無理に食べる。しかも、喜捨品には市販のスナック菓子やレトルト食品が増えていることから、そういうものの食べ過ぎで糖尿病などを患う事案が急増しているらしい。
これだけ急増した人口が総じて食うことができていて、尚も増加を続けているのは人類の叡智の賜物とも言えるし、何か重大な犠牲を払った結果なのかもしれない。産業革命以降、人類は様々な後戻りのできない環境問題を抱え込み続けてもいる。世界中のひとりひとりが環境問題を真摯に考えるようになったとしたら、おそらく「要するにオレたち人間がいなくなれば全て丸く収まるんじゃない?」という意見が多数出てこないとも限らない。
それで150人の話だが、以下がそれにまつわる最近読んだものの引用だ。
相手を知るに際し、行動規範であるとか社会倫理であるとか日常の常識といったことについては探索する必要のない与件として共有できるなら、「わたし」も「あなた」もナマの姿よりもはるかに単純化した存在として認識されているということだろう。つまり、「国家」という仕組みを精緻に設定し、「民族」だとか「文化」だとか呼ばれるところの幻想を制度化することで、共同体の規模は如何様にも拡大できるのだろう。しかし、共有できているはずのことが実際には共有できていないことで様々な行き違いが生じるのも現実だ。だから、社会には紛争解決の手続きや仕組みも精緻に設けられている。そして何より、そうした仕組みを理解するための言葉が共有されていなければならない。ゆえに、国家には必ず組織的かつ規格化された教育もその基幹として整備されている。そうなると、150人という枠は共同体全体の規模に関して大きな意味を持たないことになる。
ローマ帝国におけるような、標準語普及運動はその後も大規模国家の成立に伴ってみられる。例えば、ナポレオン帝政時代のフランス語、ソ連のロシア語、現代中国の北京官語などを挙げることができよう。現在の人口を公用言語で並べると、中国語、ヒンディー語、英語、スペイン語、アラビア語、フランス語、ポルトガル語、インドネシア語、ウルドゥー語、ベンガル語、ロシア語、日本語、アムハラ語となる。これらの多くは広域言語と呼ばれるもので、使用範囲が加速度的に拡大している。もちろん、日本語は「広域言語」には含まれない。
以前にも書いたように公用語は必ずしも母語ではない。母語はそれぞれの人の「自己」を形成する基盤言語だ。その母語が失われ、それぞれの人の出自とは無関係の広域言語で「自己」を形成するようになると何が起こるのだろうか。「ワタシ」が「ワタシ」であって「アナタ」とは違うことがなぜ「ワタシ」にとって重要なのか。それを語るには「ワタシ」の言葉がなければならない。「ワタシ」はそういうことを踏まえて自分の言葉を語っているだろうか。広域言語は「ワタシ」を語るのに必要十分なのだろうか。
近頃はITの発達で言語の違いを超えて人々が即時的に意志の表明をできるようになった。自動翻訳のようなことも、全ての言語間では未だ無理としても、いくつかの言語間では可能とされている。世界は喧しい言葉で満ち溢れるようになった。その一方で、近頃はめっきり言葉が軽くなった。
しかし、広域言語は統治単位の人口管理は可能でも、生身の人ひとりひとりの内面を表現することはできまい。おそらく、広域言語が拡大することで、世界で「ワタシ」が消えていく。地球上にこれまでに誕生した生物種の99.9%が滅亡したという。人間を形作る根幹とも言える言葉が日々消滅している。そうか、種の絶滅はこういう形でも進行するのか。そんなことを思った。