日照注意
黄昏て日焼けで痛む頭皮かな
朝から頭が痛い。中ではなく皮。一昨日、ふと思い立って足利を歩いた。午前10時過ぎにJR足利駅に着き、午後3時43分発の電車で家路についた。その間、屋外を徘徊していた。昨日は都内、根津美術館に燕子花を見に出かけた。根津は一般の人は日時予約が必要だが、私は一般ではないので、思い立って出かけても入れてもらえる。前にも書いたが、友達がいないのにあちこちの「友の会」の類に入っている。そのおかげで、そういうささやかな特権に恵まれている。それで昼前から午後3時くらいまで都内で建物や交通機関の外と内を行き来していた。晴天に恵まれると、申し訳程度の頭髪しかないので、日照が頭皮を何かに遮られることなく直射する。初夏とはいえ、夏であることには違いない。外を歩くときは帽子をかぶらないといけない。ついでながら、今日は足腰も痛い。
例年、5月の連休は一日だけ日帰りで遠出をする。そう決めているわけではないのだが、なんとなくそういうことになっている。昨年はツレが水戸の偕楽園に行きたいというので、事前に特急「ときわ」を予約して水戸へ行った。一昨年は感染症で世間が喧しかったので徒歩で深大寺へ往復した。その前の年は感染症流行一年目で「緊急事態宣言」が発令されていたので、特にどうこうしなかった。
その2020年5月は連休明けに「特別定額給付金」なるものを申請している。全く記憶にないのだが、自分の日記にそういうことが書いてある。日記の頁をめくっていくと、その給付金が振り込まれたのは5月27日だ。幾らとは書いてない。これが何かの理由で払ったものならば、たぶん、書いていなくても金額まで記憶しているのだろう。もらった方は覚えていないが、払った方はたぶん覚えている。自分の記憶はそういうふうにできているらしい、ということが改めてわかった。何はともあれ、今年は久しぶりのフツーの連休だ。マスクは手放さないけれど。
足利といえば、足利将軍が思い浮かぶが、栃木県足利市と京都室町の足利将軍の皆様との間にどのような関係があるのか無いのか知らない。足利尊氏の生誕地は諸説あるらしい。つまり、わからないということだ。江戸幕府の徳川将軍も室町幕府の足利将軍も15代続いた。江戸は家康が征夷大将軍に補任された1603年から大政奉還の1867年まで約260年、室町は尊氏が将軍に補任された1338年から義昭が織田信長によって京都から追放される1573年までの約230年で、なんとなく似ている感じがする。しかし、江戸時代は「天下泰平」の世の中などと言われたりするが、室町時代が平和な時代であると言われるのは聞いたことがない。どちらも自分では暮らしたわけではないので、なんとも言えないが、足利の町は東京や京都に比べるとずいぶん静かだ。
足利を象徴するのは足利駅から徒歩圏内にある足利学校とそれに隣接する鑁阿寺だと思う。鑁阿寺は、なんと読むのかわからないし、そもそもこんな漢字があるのか、というような表記なので、文字を見た瞬間に見なかったことにしたくなる。今時は、わからないことがあればすぐに検索してどうこうできるので、検索してわかることはここには書かない。
足利駅を後にして足利学校に向かって歩いていくと、それらしい茅葺屋根の建物が視界に入る。その手前、通りを挟んでこちら側に太平記館という土産物店がある。北関東は総じて小麦の栽培が盛んで、あちこちにその土地の地粉がある。足利も例外ではないようで、地元産の小麦粉を使った麺類や、小麦粉そのものが棚に並んでいる。我が家ではパンは頂き物のホームベーカリーで焼いて食べるので、小麦粉(安い!)を買おうとする激しい衝動に駆られた。しかし、そこは一旦深呼吸をして冷静を取り戻し、当日それからの行動の自由度を考慮して泣く泣く購入を断念した。車で来たのならともかく、電車を乗り継いでここまで来て、この先も徒歩で移動するのである。ただでさえ虚弱な心身が老齢で一段と敏感になっているというのに、キログラム単位の負荷を増すわけにはいかない。とはいえ、ちょっと変わった柄のマスクを娘への土産に、地元の珈琲焙煎業者が焼いたコーヒー豆「渡良瀬ブレンド」200gを自宅用に買った(安い!)。小麦の1kgは重いと思うのだが、珈琲豆の200gは苦にならないということだ。
我が家ではコーヒーは自分で豆を挽いてペーパードリップで落として飲むのを習慣としている。私がコーヒー好きで、都内世田谷区在住の焙煎職人の家に通ってコーヒーのことを勉強し、そこで知り合った人が開業した焙煎店で豆を購入するのを習慣としている。このことは以前に書いた。
今や日本の大都市以外の土地では当たり前になったが、駅前にこれといったものがなく、総体に人の気配が薄い。足利も、足利学校とそれに隣接する鑁阿寺、縁結びの神様とされる織姫神社以外は、そんな風情だった。足利学校は創設不詳だが、少なくとも室町時代には関東の最高学府だったという。明治に入り廃校となってからは久しく顧みられることがなかったが、1990年に現在の状況に整備されて足利市教育委員会によって管理されている。入場料をペイペイで払ったら、アプリに「足利市に支払い」と表示された。
鑁阿寺は春の大祭の最中で、普段は公開されていない重要文化財の経堂が有料公開されていた。中に輪蔵があり、回転させることができる。寺の人によれば、京都の知恩院にあるものに次ぐ規模の輪蔵とのこと。もちろん回してきた。輪蔵もさることながら、壁際に15体の足利将軍の木像(坐像)が並んでいる。初代の尊氏、権力を極めた三代義満、東山文化を興した八代義政、信長に担がれ捨てられた十五代義昭の4人以外は知らない人たちだ。徳川将軍は15人全員を言ってみろ、と言われて10人くらいは言えるし、「副将軍」の黄門様も、東野英治郎と西村晃くらいはすぐに思い浮かべることができる。それで15体の木像なのだが、順番を入れ替えられてもわからない気がする。堂内が暗い所為もないとは言えないが、それ以前の問題だ。だからと言って、これから足利将軍や室町時代のことを調べてみようという気にもならない。ま、今のところは、ということだが。
鑁阿寺を出て向かったのは渡良瀬川だ。川が見えればどこでもいいというのではなく、渡良瀬橋が見てみたかった。別に森高千里のファンというわけではないのだが、ちょっと気になってしまって。行ってみると結構通りの激しい道路になっている土手の、橋がいい塩梅に見えるところに歌碑がある。歌碑の隣に押しボタンが付いた照明灯の柱があり、そのボタンを押すと「渡良瀬橋」が流れる。出だしはちょっと音が不安定だが、そのうちちゃんと聞こえるようになった。
歌碑を前にして振り返った位置にある高台に神社が見えた。足利織姫神社という、かなり立派な社だ。目にした以上、お参りしないわけにはいかないと思い、参拝した。高台の麓の一の鳥居から境内までは229段の石段を登る。参道の階段も御社も比較的新しい。しかし、それなりの由緒のある神社だ。ということは氏子組織がしっかりしていて、手入れを心がけているということだ。奈良近辺を旅する時にも感じることなのだが、歴史のある土地というのは、今は一見すると寂れていても、何か脈々と続いているものがあり、土地の人々の立ち居振る舞いに現れるものがあったりする。特に、その土地の子供達の様子にそうした民度のようなものが出る気がする。きちんと観察した結果ではなく、あくまで私個人の印象でしかないが。そういう意味で、足利は気持ちの良いところだ。
参拝を終えて石段を降りると八雲神社の末社がある。八雲神社は「渡良瀬橋」の歌詞にも登場するするが、それは総社の方だ。せっかくなので、そちらにもお参りする。途中、物外軒という茶室と庭園が「特別公開」という看板を出していたので立ち寄る。諸々維持管理が大変なので、公開するのは今の時期と秋の紅葉の頃だけなのだそうだ。丁寧に維持されている居心地の良い場所だった。
八雲神社は足利総鎮守で、貞観11(869)年の東国大震災のときに、清和天皇が京都の八坂神社、愛知県の津島神社とともに勅願所に定めた神社だという。現在の社殿は、直近の伊勢神宮の式年遷宮で譲り受けたもので、比較的新しい。
八雲神社からぶらぶらとJRの線路沿いを歩いて駅へ戻る。この日は足利フラワーパークが混雑してダイヤに10分近い乱れが生じていた。しかし、足利駅前は静かだった。
新宿=足利 往復
07:48 新宿 発 埼京線 武蔵浦和 行き
08:02 赤羽 着
08:10 赤羽 発 上野東京ライン 快速ラピッド 宇都宮 行き
09:05 小山 着
09:27 小山 発 両毛線 高崎 行き
10:12 足利 着 途中、足利フラワーパーク駅混雑の為、3分遅れ10:15着
15:43 足利 発 両毛線 小山 行き
(ダイヤ乱れで入線3分、入れ替え待ちで8分遅れ 実際の出発は15:51)
16:23 小山 着 実際は8分遅れのまま16:31
16:41 小山 発 上野東京ライン 小田原 行き
17:46 赤羽 着
17:51 赤羽 発 埼京線 新木場 行き
18:06 新宿 着