坂田和實 『古道具もの語り』 新潮社
8月26日に日本民藝館を訪れたとき、売店で本書を見かけた。坂田が東海道新幹線の車内誌『ひととき』の2014年9月号から2019年7月号まで隔月で掲載したエッセイをまとめたものである。新潮社で「青花の会」を担当する菅野康晴らが坂田の没後に編集を手掛け、今年5月に発行された。連載の方が坂田の病気で中断してしまったので、本書は尻切れトンボのようになっているが、事情を知っているので、その尻切れ感に坂田の不在を感じる。だいぶいい値段だったが、思い切って購入した。
『ひとりよがりのものさし』のような体裁で、内容もその続編のようになっている。しかし、『ものさし』からは数年経ており、坂田の眼も変化している。その変化を言葉の変化や取り上げたものの微妙な違いで感じることは、なんだかとても贅沢なことのように思われる。生きることの愉しみは、こういう体験にあるのだとつくづく思う。
先日、名古屋で行われた伯母の葬儀に参列した。昔は葬儀というのは当事者の家族はもとより、その地域にとっても大きな行事で近隣の人々総がかりで営まれたものらしい。今は余程のことでもないとそういう葬儀にはお目にかかれなくなった。こういうところにも人の暮らしのありようの変化が顕れているのだろう。端的には、人ひとりを取り巻く人間関係が淡白になり、個人が文字通り「個」あるいは「孤」の度合いを強めているとも言える。伯母の葬儀も葬儀社の会館で親戚親類一同が30数名集まって菩提を弔うもので、地域の人々の参列はなかった。葬儀では二人の天台宗の僧侶が読経したが、一人は錦の袈裟を、もう一人は黄色の袈裟を纏っていた。今は僧侶の袈裟は色に関係なく綺麗なものだが、そもそも仏教というのは物へのこだわりとか煩悩を超越した世界を目指すものではなかったか。
例えば黄色の袈裟だが、もともとは糞掃衣だったのだろう。しかし、今の時代に本物の糞掃衣を纏ってこうした儀礼的場所に出てこられたとしたら、それを有難いと思う人よりも怪訝に思う人の方が圧倒的に多いのではなかろうか。宗教が本来の思想的哲学的観念から離れて便宜的形式的なものに変容しているのは世情の変化として仕方のないことだと思う。また、こうした変容は人ひとりが「個」あるいは「孤」の度合いを強めていることと同じ類の変容でもある。
本書には、さすがに糞掃衣は掲載されていないが、雑巾について語っている頁がある。「知人の漆職人からのプレゼント」とある。坂田の雑巾の話は結構有名で、何度か雑巾だけを集めた展示会を開催しているはずだ。私は雑巾を「美しい」と思えるような境地には至っていない。この先もそんなふうに感じられるようになるとは思えない。なにしろ俗の中の俗を行く類の人間なので。
今は、最初から「雑巾」として生産された布製品が当たり前に流通しているが、本書にあるような雑巾は使い古された繊維製品の最後の姿であったはずだ。人の手間をかけて紡がれた糸を人の手間をかけて織り、人の手間をかけて縫い合わされて、人の用に供され、人の暮らしの中に在って、損耗消耗に伴って人の暮らしの中での用途が変更され、さらに消耗して人の暮らしの用に耐えなくなる極限まで人と共にあった。その最後の姿を「美しい」と感じることのできる感性は常人の域を超越した者だけのものだろう。
『ひとりよがりのものさし』の方も開いてみたら最初に取り上げていたのが「ボロ布」だった。
先日、伊勢丹で開催されていた「ISETAN ARTS&CRAFTS」を覗いたら、本書も平積みされていた。催しの案内には「坂田和實(骨董商)」とあった。「骨董商」にちょっと笑ってしまった。ふと、小林秀雄の言葉を思い出した。