『復刻アサヒグラフ 昭和二十年 日本の一番長い年』 朝日新聞社
昔、『アサヒグラフ』という雑誌があった。週刊の写真画報誌で、写真を主、記事を従として世情を報じるものだった。今は街を往く人の八割以上がそれぞれにカメラ機能のあるなんらかの機器を手にしている印象だが、かつては映像を記録すること自体に価値があった。「活字離れ」というのは自分が子供の頃から既に言われていた気がするのだが、写真誌や画報誌もなくなってしまった。『アサヒグラフ』は2000年にシドニーオリンピックの総集編を最後に休刊となった。
本書は昭和20年に発行されたものの中から以下の十号を一冊にまとめたものだ。薄い。モノのない時代だったので、原本も薄かっただろう。戦時中であろうとなかろうとマスメディアというものは時の権力から容認された媒体だ。世間にはエスタブリッシュメントのコンテンツを無批判に受容する傾向があるようだが、世に大手を振って流布される「情報」というものはなんらかのフィルターを通過したものであることを十分に認識しておかないといけない。「大手ナントカ」だの「お上」だのの権威を無闇にありがたがって、思考を回避するのは単に安易であるからなのか、そもそも思考力が欠如しているからなのか。いずれにしてもろくなことにはならない。それでも御用メディアの表題を並べてみるだけでも興味深く時勢を俯瞰できる。世の中というはどのようなことも起こり得るというのがよくわかる。
新年号の「大東亜線局の焦点」には時の日本の勢力圏が地図で示されている。すでに大勢は決していたはずだが、依然として東南アジア、朝鮮半島、満洲、中国の一部が日本と同じ色に塗られている。記事だけ読むと戦況は厳しい印象だが、この地図と併せると挽回の余地があるかのようにも読める。同じ号の記事には在外領土や同盟国の様子を伝えるものもあるが、そこにも似たような余裕があり、何よりそうした勢力圏が存在しているかの印象を守ることが当時の報道としては意味があったのだろう。
3月7日号には硫黄島の様子が報じられている。備え万端であるかの印象だが、現実は真逆だったことは今となっては誰でも知っている。また、何故この時期に硫黄島のことが報じられたのかということにも興味が湧く。国内の記事では「本土戦場の態勢」と題して軍需工場の様子と避難訓練の写真が掲載されている。1月には日本周辺の「勢力圏」が語られていた舌の根も乾かない内に本土が戦場になる現実を語らないわけにはいかない状況になっていた、ということだ。
3月21日号は表紙が空襲の写真。3月10日の「東京大空襲」を機に本土への無差別爆撃が本格化した。「伐り出せば勝つ」との見出しが踊るのは十勝岳での森林伐採の話。航空機の材料だそうだ。高度1万メートルを飛行するB29に木製飛行機で挑もうというのである。
4月25日号の表紙は出撃直前に水盃を頂く特攻隊員の姿。巻頭記事は沖縄戦。
6月25日号の表紙も特攻隊員だが、子供だ。巻頭記事は特攻。
7月15日号は「本土決戦と必勝の信念」という巻頭記事。この号にも戦局解説の地図が載るが、描かれているのは日本列島だけだ。しかも、敵の爆撃機がどこの基地から飛来するかという解説。同じ地図付の記事でも1月とは様変わり。
そして迎える8月。巻頭は戦争終結の詔書。続いて原爆の解説。日本各地の食糧生産の様子。
翌9月は連合軍の進駐の様子を伝える記事が巻頭を飾る。数ヶ月前まで「戦う」とか「決戦」の文字が踊っていた同じ雑誌とは思えない変わり様だ。興味深いのは簡易住宅の紹介。厚生省型簡易住宅というものと東京都応急簡易住宅というものがあったらしい。間取りはほぼ同じで、どちらも六畳間、三畳間、土間で構成され、どちらも12m x 18mであるが、厚生省型はこのサイズの中に押し入れも含まれるのに対し、東京型は押し入れが外にはみ出す形になっている分、土間が広くなっている。便所はどちらも外付けで風呂はない。土間が台所兼玄関というのが今となっては考えにくい造りだ。さらに注目すべきは、この号には仏像の大きな写真が載っている。法隆寺の夢違観世音像で記事は野間清六。その記事にこうある。
つまり、世間がハイになっていたらしいのだ。その時代を生きていないのでわからないが、作用反作用ということなのだろう。無理に締め付ければ、箍が外れた時にどうなるか、ということは今まさに考えないといけないことのように思われる。
10月は復興の様子と米国人記者のみた東京の様子の記事などが並ぶ。この号にも仏像の写真が野間の記事とともに載っている。連載のようだ。今回は浄瑠璃寺の吉祥天像。記事の方は世情に言及した箇所はなく仏像の解説に終始している。この号には藤田嗣治のインタビューがある。藤田は上野原に疎開していて、取材は上野原の疎開先で行われた。周知の通り、藤田は数多くの戦争画を描き、それが高い評価を得る一方で激しい批判にも晒された。結局、藤田は日本を離れ、フランスに帰化して故国の地を踏むことなく生涯を終えた。このインタビューは1945年なので日本を離れる4年前だが、ここで彼の見る日本人というものを語っている。
今も同じだと思う。
12月は巻頭は炭坑の記事だが、秋場所大相撲が大きく誌面を飾った。戦後初の大相撲は戦災に遭った国技館を応急処置で体裁を整え、11月16日に開幕。10日間にわたり実施された。ただ、戦後のモノのない時代なので、関取は身体の調整が十分とは言えず、皆それぞれに苦戦したらしい。確かに写真で見る限り、関取の割にはスリムだ。
夏までは焼け野原だったのだから、住宅難というのは容易に想像がつくが、この号では軍隊の兵舎を集合住宅に改装した事例が紹介されている。元の野戦重砲兵第八聯隊東部第一八六部隊の兵舎で、敷地面積二万八千坪、建坪六千坪、場所は世田谷区三宿。兵舎の時は約五千名の兵を収容したが、復興住宅としては千三百世帯を収容、とある。
食糧事情の厳しさを物語る記事が「木の実の食糧化」。ドングリをどうやって食べるか、というハウツーの記事だ。書き出しが衝撃的だ。
今暮らしている団地の敷地内にもぼちぼちドングリが転がり始めているが、これを食べるとなると、考え込んでしまう。木の実でも栗のように旨いものもあるが、ドングリは腹に収まるまでに並大抵の手間では済まないだろう。しかし、また食べなければならない状況にならないとも限らない。
この号には岩波茂雄のインタビュー記事がある。岩波書店が古書店から発展したものであることを初めて知った。この記事から、この時期に日本必敗論が流行っていたことが窺える。
多くの人は、年のはじめには戦況がどれほど悪くとも、必ず勝つと思っていただろう。だから「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」日々を過ごしてきたのである。それがこうも変わるのだ。世情の変化は現在の比ではなかっただろう。その時代を私の親祖父母の世代は生き抜いて今日の基礎を拵えた。人の適応力は自覚を遥かに超えているのだと思う。そうしなければならないと思えばそうするもの、と思うより仕方がない。しかも、当事者は自分の親祖父母。かなり身近な人たちの実体験だ。こうして時間を置いて振り返れば、生きることは節操のないこと、恥ずべきことにさえ見える。たぶん、それは戦中戦後を生き抜いた当事者とて同じだったのだ。だからムキになって己の存在を正当化したい。戦後の復興は、何もかも失ってしまったのだから何もかも改めて造り直さないといけないという事情が当然にあったにせよ、多くの人命が失われた後を生きることの後ろめたさも大きな原動力になっていたと思うのである。「奇跡の復興」は日本だけではない。ドイツもイタリアも他の戦災に見舞われた地域もそう呼ばれている。どこも事情は同じだろう。
もう何年も、家にテレビがなく、新聞も購読せず、そっと息を潜めるように暮らしているつもりなのだが、それでもどこからか雑音が漏れてくる。文人画の中の文人のように静かに暮らすことができないものなのだろうか。そのように暮らしたいと腹の底から思って行動すれば可能だということはわかっているのだが。