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たまに短歌 滋賀県長浜市3 2024年9月29日 寺の守り

古寺の骨組み歪み床沈む
朽ちゆく広間床に鶯

ふるでらの ほねぐみゆがみ ゆかしずむ
くちゆくひろま ゆかにうぐいす

滋賀県湖北地域から福井県にかけて観音像を祀る寺院が多く立地していると言われる。

滋賀県は琵琶湖という県域の約6分の1を占める大きな湖を県の中央に擁し、穏やかな気候の土地を想像しがちだが、湖北はけっこう雪が降る。道路に融雪装置が埋設されているし、少し山の方に入るとスキー場の看板が出ている。滋賀県のサイトを見ると、数年前に開催された「防災カフェ」というイベントで彦根地方気象台の職員の方々が「雪に埋もれた湖国」と題して滋賀県北部の降雪について語っている。

積雪が多い地域で、積雪による自動車交通等が途絶するなど、住民の生活の支障度が著しい地域は「特別豪雪地帯」に指定されますが、長浜市の一部(旧余呉町)も対象となっており、滋賀県北部の広い範囲が豪雪地帯や積雪寒冷地に指定されています。滋賀県はかなり降雪量が多い地域と言えます。

小野善史(彦根地方気象台 防災気象官)「第 75回 防災カフェ(Web):雪に埋もれた湖国」2022 年 11 月 24 日(木) 

最近は温暖化の影響で総じて降雪量は減少しているようだが、時代を遡れば今とは比較にならないほど厳しい冬があっただろう。

生活環境の厳しい地域は信心が篤くなる。人智だけではどうにもならないことに晒されることが多い所為かもしれない。しかも、古い時代の日本においては、国家の中枢が立地する近畿と日本海、その向こうの大陸を結ぶ交通路として琵琶湖が機能し、湖北はその交通路の要衝であった。その要衝の覇権を巡って地政学的な闘争も繰り返されたはずだ。「琵琶湖を制する者は国家を制す」と言われたりもしたらしい。

羽柴秀吉が城持ち大名として初めて自分の城を構えたのが長浜城。その上司とも言える織田信長の安土城も琵琶湖に面した立地であった。江戸幕府成立後、徳川側近として幕末まで政権中枢を担った井伊家は1604年以降、彦根を本拠地とした。そのすぐ近くに徳川に滅ぼされた石田三成の佐和山城があった。琵琶湖周辺には関ヶ原をはじめ、賤ヶ岳、姉川といった戦国時代の画期となった合戦場がある。前回のnoteに明治時代の早い時期に鉄道が敷設されたことに触れたが、過去において琵琶湖とその周辺は日本屈指の要衝の地であったと言える。

そのような土地で暮らす人々が、厳しい自然環境と社会環境の下、理屈を超えた世界に心の支えを求めるのは自然なことのように思われる。そうした歴史的な下地があって、今なお多くの寺社仏閣、特に寺院が滋賀県湖北地域に立地しているのではないかと推察できる。

総務省統計局によれば、2023年10月1日時点での日本の推計人口は約1億2345万人で、47都道府県のうち人口が最も多いのは東京都で約1,408万人、最も少ないのが鳥取県で53万人、滋賀県は140万人。文化庁が毎年まとめている『宗教年鑑』の令和5年版(2024年1月公表、収載統計は2022年12月31日現在のもの)によると、日本の宗教団体(宗教法人と非法人組織)の数は210,380で、都道府県別の分布を見ると最も多いのは愛知県で10,779、最も少ないのは沖縄県で479、滋賀県は5,508だ。ここではこれを宗教施設(神社仏閣など)の数とほぼ同じものと想定する。人口千人あたりで見ると様相が変わり、日本全体では1.69だが、最も多いのは福井県で5.06、以下、高知県4.55、島根県4.48、富山県4.03、奈良県3.95、滋賀県3.91、新潟県3.85、山梨県3.82、徳島県3.69と続く。さらに宗教団体の種別で見ると、人口千人あたりの寺院は滋賀県が2.28で最も多く、次いで福井県が2.25でほぼ同じだ(全国平均0.62)。確かに、滋賀と福井は人口に対して寺院が多いのである。

ちなみに、人口あたりの神社の数が最も多いのは高知県で3.23と突出している(2位:福井県2.29、全国平均0.65)。明治維新までは神仏習合が一般的であったのが、明治の廃仏毀釈で神社に一本化したり、寺院を廃したりした名残が現在の神社仏閣の在り様にも見て取れる。何年か前、多摩美術大学で高知県の仏像を特集した企画展があった。その関連講演会で、土佐は明治維新を主導した薩長土肥のなかで相対に存在感が薄く焦りのようなものがあったので、薩長がそれほど注力していなかった廃仏毀釈を熱心に推進したのではないか、という話を聴いた記憶がある。四国には御遍路の伝統があり、仏への信仰という点では決して薄い土地ではあるまい。しかも、高知県室戸市には空海が悟りをひらいたという洞窟まである。神社と仏閣を別物として見てしまうと、信仰とか心の歴史の風土といったものを見誤るかもしれない。福井県は人口あたりの神社も寺院も共に多い。おそらく、神仏習合の文化が強く根付いていて、土地の人々が廃仏毀釈を比較的上手に乗り切ったのではないか。あくまでも勝手な推測だ。ほんとうのところは、私は知らない。

長浜は観音信仰が盛んで高月町の渡岸寺どうがんじで公開されている十一面観音立像をはじめとして数多くの観音様が人々に守られている。その渡岸寺のことは別の機会に書くとして、長浜に着いた29日は市街にある大通寺という大きなお寺に参詣した。観音信仰と大通寺は直接関係はないのだが、寺の立地している土地の風土を語る上で、多少の下地的なことに触れておかないわけにはいかないと思い、長々と統計的なことを交えてここまで書いた。

観音信仰は少なくとも平安時代にはこの地に広まっていたが、大通寺の元は天正年間に開設された寄合道場だ。何のための寄合かと言えば、織田信長と戦う大坂石山本願寺を支援する僧俗の作戦会議場のようなものだったらしい。信仰が底にあるには違いないのだろうが、かなり政治的な色彩が強い。時の本願寺法主は顕如上人。その後、顕如上人は慶長7年(1602年)に徳川家康より許可を得て大谷派本願寺(東本願寺)を興す。これに伴いこの長浜の寄合道場は無礙智山大通寺として発足した。そういう謂れのある寺なので、境内の建物や収蔵品は江戸時代のものが多く、周辺の観音関連のものに比べるとかなり新しい。それでも土地の中核を成す寺院として近世以降の長浜を語る上では欠くことのできない存在だ。しかし、今は大変荒廃している。

内部は公開されていて、たまたまボランティアガイドのお話も伺う機会に恵まれた。そのガイドの方の説明によると建物も調度品も大変立派なのだが、その立派さが仇になっているところもある気がする。まず、木造の巨大建築なので、よほど材を選りすぐり建築技法に工夫を重ね、さらにその後の修繕を継続しないと、何百年も耐えられない。現在、骨格は相当歪んでおり、床は一歩踏み締める毎にはっきりと沈む。廊下は鶯貼なのか、経年劣化の所為なのか、歩く毎にピーピー鳴くような音がする。建築の専門家ではないのだが、おそらく部分的な修繕では間に合わないのではないか。現在でも毎年7月と10月に大きな行事が行われているそうなので、その存在感は依然として大きなものなのだろう。そういうお寺であれば尚更のこと、なんとかしなければならない。そう思うのである。おそらくこの土地だけの問題ではなく、この国全体、ひょっとしたら世界全体にも通じる何かが、この荒廃の背後にあるような気がするのである。

出所:文化庁編『宗教年鑑 令和5年』(2024年12月31日現在)および
総務省統計局 人口推計(2023年10月1日現在)より熊本熊作成

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熊本熊
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