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たまに短歌 都市の幻
驟雨掌の中だけを通り過ぎ
名残りの奔流外界の事実
にわかあめ てのなかだけを とおりすぎ
なごりのながれ げかいのまこと
昨夜は激しい夕立だった、らしい。スマホには大雨に関する警報が届き、調布には洪水注意報が出た。仕事は事務職で弁当を持参しているので、外を歩くのは家と駅の間だけだ。職場の最寄駅と職場のあるビルの間は地下道で繋がっている。昨日は仕事帰りに出光美術館の水曜講演会を聴講したのだが、職場のビルから美術館のあるビルまで地下道で移動した。講演会が終わって、少しだけビルの外に出てすぐに同じビルの別の入口から地下鉄の駅に向かう時だけ雨に当たった。家の最寄駅に着いた時には雨は上がっていた。
都市での暮らしが鉄筋コンクリートの構造物の中だけで完結するようになり、様々な情報が携帯端末で受け渡しできるようになった。例えば、職場の自分の席からは外が見えない。空調があるので外気温がわからない。それでも手元の携帯端末で建物の外だけでなく世界の主要都市の天候や気温がわかる。そういうなかで半日近くを過ごした後に外に出ると、地面が濡れていたり、河川の水位が上昇していたり、様子がだいぶ変化している。
コンクリートで隔絶された世界も、生身の外界も、どちらも確かな現実だ。しかし、感覚として、どちらがより「現実」なのだろうか。掌の上の端末が表示するものしか信じることができない、なんていう人もたぶんいるだろう。土砂降りの雨の中でずぶ濡れになって、吹き荒ぶ嵐に飛ばされそうになっても、手にした端末が「快晴、無風」と表示していれば、心地良いと感じるのかもしれない。快晴で適度な温度と湿度に恵まれていても、端末の表示が「暴風雨」なら、不快感と恐怖に苛まれるのかもしれない。「現実」とか「事実」といったものは実在するのだろうか。
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