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蛇足2 『すべての、白いものたちの』

白とか命とかの話を読んだら、それを汚すもののことが思い浮かんだ。わざわざ汚い話を書き記さなくてもよさそうなものだが、書きたくなってしまうのである。我ながらガキだなぁ、と思う。ジジイなのに。

美しい色艶で、食欲を唆る香りを漂わせた、これ以上は望むことができないほど美味いものを食べても、結局は糞になる。なんと残酷なことだろう。残酷、己の低俗と無力を実感し確信する過程を人生と呼ぶのかもしれない。世に薄っぺらなキレイゴトが溢れているが、あんなものを本気にしているうちは生きることはまだ始まっていない。

もちろん、口に入れたものが全て糞になるわけではない。血になり、肉になるところもある。そこから活力に転換されて新たな何かへと展開する。よく咀嚼しないと無駄に糞になるから、食べるときには心しないといけない。たぶん、我々は燃費が悪い。

世にあるものを大量に消費して、そこから僅かばかりの活力を抽出し、それによって我々の世界は動いている。他の生物の世界のことは知らない。消費して糞にならないで消えていったものにこそ値打ちがある。ほんとうに大事なものは目には見えず、耳に聞こえず、手に触れることはできず、ただなんとなくそう感じられるだけのものなのだろう。

そういえば、桂米朝が自分のレコードやDVDやCDを称して「こんなものはウンコみたいなもんです」と言っていた。たぶん謙遜ではない。チェリビダッケは録音を嫌ったという。私は音楽とはまるで縁がないのだが、1990年の夏だったか、ミュンヘンGasteigの桟敷席で聴いたチェリビダッケが振るミュンヘンフィルのモーツァルトGrosse Messe C-Mollには鳥肌がたった。チェリビダッケといえばブルックナーという人が多いが、自分の数少ないコンサート体験の中で、あのモーツァルトだけが今でも記憶に刻まれている。

芸事に限らず、一回コッキリ、その場その瞬間だけに賭けるというような潔さがあってこそ、心揺さぶる世界と出会うことができる。そして、そういう経験こそが人を大きく深くする。今になってみれば、かなりの確信をもってそう思う。そう思う頃には自分に関して手遅れになっている。それもまた一つの生き方だと思うより他にどうすることもできない。それもこれも含めて自分なのである。受け容れようじゃないか。糞だけど。

見出しの写真は1995年11月に撮影したデリーのどこか。道端の日当たりの良い場所には牛糞を丸めて伸したものが並んでいた。手作業で伸すので、この牛糞饅頭には人の手の跡がはっきりと残っている。乾燥させて燃料にするのだそうだ。燃料として使用した後の灰は堆肥と混ぜて肥料の一部となる。糞も立派に役に立つ。

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熊本熊
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