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たまに短歌 荒川流域

月を指す指は月ではないけれど
遠くて近き指を絡めて

つきをさす ゆびはつきでは ないけれど
とおくてちかき ゆびをからめて

先週、職場の15分勉強会の順番が回ってきた。今回はお題が決まっている。自己紹介。一昨年の合併で人の出入りがあり、合併で加わった人たちが、旧所属からの出向扱いから、新所属の正社員に変わった。その間に出向のまま去った人もあり、合併とは関係なく去った人もあり、新たに加わった人もいる。ここへきて職場の中が少し落ち着いたこともあって、ちょっと自己紹介でもしましょうか、ということになった。

他の人の自己紹介を聴いていると、当たり前に職歴と趣味を語ることが多い。職場というものは、職務に応じた経歴と技能の持ち主が集められた場であるので、職歴と学歴については似たり寄ったりになりがちだ。それを語っておもしろいだろうか、と思ってしまった。そういうことに妙に好奇心を刺激される人は少なくないのは承知しているつもりなのだが。

15分の持ち時間で自分の何を語ったら面白いと思ってもらえるだろうか、と考えた。最近読んだロビン・ダンバーの『宗教の起源』に「友情の七つの柱」というものがあった。他者との親近感を創り出す要素のようなものとして大きく七つが挙げられるというのである。

霊長類の社会的結束は二重のメカニズムによって生みだされる。エンドルフィン系とそれがつくりだす結束感が、信頼感を醸成する薬理学的な環境を整え、そこから第二の、より認知がからむメカニズムが働きはじめるのだ。サルと類人猿の場合は、相手の行動や反応を理解することがそれに相当する。ヒトの場合は、共同体のメンバーであるという合図、つまり信頼に値するという合図となる一連の文化基準も関わってくる。親しい友人や家族が共有する特徴を分析すると、鍵となる基準は七つにまとめることができそうだ。名づけて「友情の七つの柱」である。具体的には、言語、出身地、学歴、趣味と興味、世界観(宗教、道徳、政治の立場)、音楽の好み、そしてユーモアのセンスである。家族でも友人でも、これらの共通点が多いほど関係は強固になり、相手のために行動する気持ちが強くなる。

ロビン・ダンバー 著 小田哲 訳『宗教の起源』白楊社 129頁

それでこれらの項目を軸に話を拵えた。このnoteのプロフィール欄には1962年に埼玉県蕨市で生まれたとだけを記しているのだが、この二つのことだけで思いの外多くのことを語ることができる。1962年だけでもたくさんのネタが次から次へと思い浮かぶのである。結果として、話は出身のところから前へ進まず、相もかわらぬ中途半端なものに終わってしまった。

1962年といえば敗戦から17年が経過し、それなりに復興が進行していたはずだ。しかも、2年後にオリンピックの開催を控えて、競技施設はもとより、公共インフラの整備も大急ぎで行われていたはずだ。この年、首都高の一部区間の供用が始まる。

たまたま手元に『考える人』という季刊誌の2006年冬号がある。特集が「1962年に帰る」で、関川夏央、和田誠、植木等、佐野洋子、片岡義男、その他様々な分野の人々が1962年についての文章を寄せている。一通り目を通してみて通底しているのは、ビンボーだったということだ。今は押しも押されもせぬ地位にあり、新潮社というメジャーな出版社から原稿やインタビューを依頼されるような人だからこそというところもあるにせよ、そのビンボーの語りが楽しげだ。「今」があれば、1962年のビンボーは悲惨ではないのである。

私が幼年期を過ごしたのは埼玉県南の荒川流域だ。生まれたのは蕨だが、暮らしていたのは西川口で、3歳で戸田に移った。「戸田」は水捌けが悪い田という意味の「ド田」がもとになっているという話もある。昭和40年代に大規模な河川改修が行われるまでは水害が多かった。台風の時期など、よく水が床下まで上がり、玄関で靴が浮かんでいた。水が引くと役場だか保健所だかの軽トラが消毒液を撒きに来た。その消毒液の匂いが、今でも微かに記憶に残る。そうした状況は荒川対岸の東京都板橋区船渡あるいは坂下も同様だったということを最近になって知った。『文藝春秋』の2024年4月号に村上隆・祐二兄弟の対談が掲載されている。その対談ではなく、巻頭の写真が並ぶコーナーの一画にこんな文章があった。

「私は幼少期の記憶がほとんどありませんが、生活が貧しかったことだけは覚えています。板橋の家はボットン便所。雨がたくさん降ると、便所の中身まで雨水と一緒にプカプカと浮かぶ光景は、目に焼き付いています(笑)」(隆)

『文藝春秋』2024年4月号 巻頭カラーページ 「小さな大物 440」
 村上隆(1962年2月1日生まれ 現代美術家)×
村上裕二(1964年10月9日生まれ 日本画家)

義務教育はそういう地元の公立校で、高校は都内の私立校だった。その高校は今はちょっと立派な学校になったが、私が通った頃は第一志望で入る学校ではなかった。先生方の過半は都立高校を定年で退職された方々で、校長経験者が少なくなかった。極め付けは、陸軍の学校で英語を教えていたという先生だ。戦後何十年も経ているというのに、私は戦時中の陸軍将校と同じ授業を受けたのである。高校生当時は、こんなジイさんの授業なんか受けていて受験は大丈夫だろうかと不安に思ったものだったが、今から思えばジイさんたちが活き活きと楽しそうに教壇に立つ姿を目の当たりにする3年間を過ごしたことは貴重な体験だった。遠足や修学旅行では間違いなく生徒よりも先生の方が楽しげだった。今、自分がそのジイさんたちの年齢に近づいて平然と、淡々と、飄々と、、、まぁ、特にどうということもなく毎日を過ごしていられるのはそういう体験があればこそではないかと思うのである。ジジイでも大丈夫、という経験に基づく安心感のようなものがある。何がどう大丈夫なのかは知らないけれど。

学歴で特筆すべきは、某美大の通信課程に1年ほど在籍したことか。2011年11月に解雇された頃、最初の勤務先の同僚が放送大学を受講して学生証を交付され、映画、美術館・博物館、その他入場料を払う類のものが「学生料金」になると語っているのを耳にした。クビになって暇になったので、学校にでも行こうかと思ったのである。放送大学の講座も調べてみたのだが、面白そうだと思えるものがなかった。既に陶芸を初めて数年経過していたこともあり、ここはひとつ美術のことをちゃんと勉強しようか、などと柄にもないことを考えて入学願書と必要書類一式を提出した。一応、大学を卒業済みだったので3年次に編入との連絡をいただいた。2012年4月、晴れて学生証を手にして、映画を観に出かけ、博物館や美術館に行き、学生料金を享受した。ところが、新宿末広では学生料金での入場を拒否された。そのことは以前に書いた気がする。つまらないことを根にもつタイプだ。学生料金生活も束の間、4月に就職してしまったので、通信制とは言いながら、さすがに仕事をしながら学校も、というわけにはいかず、多少は学生らしく課題や勉強に取り組みながらも卒業には至らなかった。

音楽に関しては、以前、このnoteにインドの民族楽器であるタブラーを習ったことがあると書いた。大学を出た年に半年ほどマンツーマンで手ほどきを受けたが、手がほどけなかった。相場の格言に「見切り千両」というのがある。不思議と陶芸は続いているが、総じて見切りは早い方だ。その割に「千両」を手にしたためしがない。「カネとクソはたまるほど汚い」と言う。見切ってばかりで、千両には一向に恵まれず、というのはさっぱりしていて気持ちがいい。と、思うより他にどうしようもない。音楽で、第九の合唱団にお邪魔したことは先日このnoteに書いた。音楽は、まぁ、何だな。まぁ、いいや。

陶芸は好きとかどうとかいうよりも、自分と世界とを繋ぐ手掛かりのようなものだ。今はちょっと頼まれて皿を作っているが、ここ2年ほどは徳利ばかり作っていた。同じものを作り続けることで見えてくることがある。言葉にはならないのだが、ある。それで昨年の今時分に徳利を携えて銚子へ出かけてきた。そのこともnoteに書いた。

以上、自己紹介。

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熊本熊
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