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極楽幻想

極楽を一つ一つ描くほど極楽軽く虚ろな世界
(ごくらくを ひとつひとつと えがくほど ごくらくかるく うつろなせかい)

昨日、宇治にある平等院を訪れた。以前から訪れてみたいと思っていたが、大変な人気と聞いていたので、感染騒動前は出かける気になれなかった。さすがに今のようなときなら人混みはないと踏んで、奈良に出かけた帰途に立ち寄った。果たして、人混みというほどではなく、鳳凰堂内部の拝観は90分待ちだった。

平等院鳳凰堂の稀有なところは、創建以来火災に遭っていないことだ。つまり、1000年近く前の世界観を間近に感じることができる素材に接することができる。もちろん、木造なので、ある程度の周期で大規模な補修が行われる。直近では平成24年から26年にかけて実施された。修繕期間中に取り外された飛天がサントリー美術館で公開されたのを観たことも興味を覚えたきっかけの一つだ。何よりも日常使用している10円硬貨に描かれているので、素朴にどんなところかと思っていた。たまたま前日に訪れた岩船寺で、寺の人が御本尊の阿弥陀如来像の説明をする際に「平等院の阿弥陀像より古い…」というように平等院の像を比較対象にしていたことも気になった。

いずれにしても、平等院が構想されたのは11世紀初頭の頃で、藤原一族がこの世の春を謳歌した時代だ。平等院を発願したのは道長の息子である藤原頼道。鳳凰堂の阿弥陀如来像は欅の寄木造。平安期を代表する仏師とされる定朝の作であることが確実視されている現存唯一の仏像だ。定朝は寄木造という仏像の製作手法を確立させた仏師としても知られ、その意味では鳳凰堂の阿弥陀如来像は寄木造の標準とも言える。一木では作れないような巨大な仏像を作ったのは、それほど木工とその周辺の技術が進歩したことにもよるだろうし、金属仏や石仏でこのサイズとなると、堂の建築工程との関連で無理があったのかもしれない。もちろん、予算の制約もあっただろう。

個人的な印象として、何らかの意味で画期となるような寺社の建立は社会に不穏な動きの萌芽がちらつく時期である。その萌芽を抑えるべく権力の耐圧試験のような意味合いで巨大な古墳とか寺社とか都市が作られている気がする。前日の岩船寺で伺った説明でも、鳳凰堂での解説でも「末法思想」という言葉が出ていた。

あくまで歴史(権力の側が整理したもので本当のところはわからない)の上では11世紀に入るか入らないかの時期は中央権力の成長が進み摂関家への荘園寄進が増大する。そして迎える藤原道長の太政大臣就任(長和6年 - 1017年)だ。月の満ち欠け以外は全て自分の思い通りになると豪語した人。但し、そもそも強気の性格だったらしく、その言葉の方も割り引いて考えないといけないらしい。

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば

藤原家が権勢を誇ったのはその通りかもしれないが、中央権力の方はむしろ揺らいでいたのだろう。だからこそ「末法思想」が語られる世になる。貴族(経済行為に資することのない消費一辺倒の存在)が世を治めるにはそれを支える生産力が社会にないといけない。おそらく当時の経済において「生産」と言えば農業のことであるから、気候変動の記録があるなら、そうしたものと併せて考察しないといけないのだが、実態としては山上憶良の「貧窮問答歌」に詠まれていた時代とそれほど変わるところはなかったのではないか。そういう中にあって貴族の生活だけが呑気に贅沢になれば、どこの時点かで権力に反旗を翻す動きが活発化する。そういう動きが乱発すれば「世も末だねぇ」となる。

貴族社会を揺るがす画期を成す出来事を現在の教科書的知識から独断と偏見で拾ったのが以下である。(年表の出典は『最新世界史図説 タペストリー』帝国書院)
894年 遣唐使廃止
902年 延喜の荘園整理令(初の整理令)
935-941年 承平・天慶の乱(平将門・藤原純友の乱)
1156年 保元の乱
1159年 平治の乱
1167年 平清盛、太政大臣に就任
この後、1192年に鎌倉幕府が成立し、以後1868年まで武士が世を治める時代となる。明治維新以降、太平洋戦争までも軍事政権下と見れば1945年まで、つまり外部勢力によって国土が焦土となるまで、この国は軍事政権下にあったとも言える。マキャベリの『君主論』では、民を治めるには恐怖を与えることによるべし、というようなことが書かれているようだが、少なくともこの国の歴史の教訓ではその通りと言えなくもない。

平等院が表現したのは、貴族の時代の終わりに滅びゆく権力側が見た「極楽」の姿だったのだろう。極楽がどのような場所であるかを具体的には語っていないが、現世にあるような煩いはなく、心静かに安穏と暮らせる場所、くらいのイメージだったのだろうか。それを具象化すると光り輝く鳥が飛んでいたり、雲に乗った人たちが楽しそうに音楽を奏でたり、食べる心配もなく、欲望が満たされているから諍いもない。なんと薄っぺらな世界であることか。しかし、美術工芸上、おそらく当時の最先端のものを駆使し、用材の調達には糸目をつけず、考えうる最上級の材と技で作られた仏像も伽藍も人間の頭脳と身体の可能性を存分に表現している。そういう人の手仕事は、あるかないかもわからない「極楽」を思い描くだけの権力とは比べようもないほどに尊いものだと思う。

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